永承七年、安倍頼時が反乱を起こしたため、勅命により、源頼義が子の義家を伴って出陣し、六月十八日に当地へ到着。
この若宮八幡で戦勝祈願をしました。
そのとき、夏にもかかわらず、碓氷川近くの老松に薄雪が積もる瑞兆があったので、父子は大いに喜んだといいます。
それより、この村を土用寒村、または十八日村(とようかむら)と呼ぶようになりました。
これが豊岡の地名の起こりであると伝えられているそうです(^_^ゞただ、これは後世の創作で、この辺りは江戸時代から野菜が豊富に採れ、実り豊かな地であったので「豊岡」となった…というのが真相のようです。
特にキュウリの豊岡節成(ふしなり)という品種は、よく知られていたそうですよ(^_^)v
御祭神 大鷦鷯命(大雀命) 諡名 仁徳天皇若宮八幡宮御由緒当社は平安末期、永承六年(1051)源頼義・義家父子が建立したと伝えられています。
即ち、前九年の役が勃発するや、頼義、義家勅命を奉じ奥州の安倍氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収り帰還の折りに再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したといいます。
以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者が此の地におり当社を崇敬しました。
寛文二年(1662)、幕府代官諸星惣左エ門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行しました。
江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などあり、常時参拝者が絶えませんでした。
境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀があります。
なお当地区には「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多くあります。
(境内由緒案内板より)高崎市指定重要文化財「若宮八幡宮のわらび手横刀」若宮八幡宮には蕨手横刀(わらびでおうとう)が所蔵されています。
長さは38cmで、刀の柄頭(つかがしら)が蕨の若芽に似ていることから、この名が付いています。
刀身の幅が広くて短いこと、柄頭の蕨手状に巻き込んだ部分に孔をあけ菊座をはめ込んで懸通孔(かけどおしあな)としていること、こしらえが簡素であることなどの特徴があります。
寛政の改革で有名な松平定信の編になる「集古十種」(寛政二年刊)には「上野国高崎郡豊岡村堀地所穫刀図」として寸法と図がのせられており、古くから研究の対象になっていたようです。
日本刀以前の刀は、現在のように反った形ではなくまっすぐな形でした。
このような刀を「大刀(たち)」と呼んでいました。
大刀は普通、刃の長さが二尺(60.6センチメートル)以上ですが、これ以下の短い刀を横刀と呼んでいます。
(「高崎市HP」参照)若宮八幡宮に祀られている神様とは?若宮八幡宮とは「八幡宮の若宮」という意味があり、宇佐神宮や石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などの八幡大神を祀る神社から勧請した神社のことをいいます。
八幡大神とは第十五代応神天皇のことです。
また、皇后の比売大神(宇佐神宮や石清水八幡宮では宗像三女神)・応神天皇の母の神功皇后を合わせて「八幡三神」とよばれています。
八幡三神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇(応神天皇の父)の三柱のことをさすともいわれています。
さらに、若宮とは皇族の子・皇子の幼少期の呼称という意味があることから、若宮八幡宮は応神天皇の皇子・仁徳天皇を祀っている神社のことをいいます。
仁徳天皇は「聖帝」とよばれるほど、優れた天皇でした。
仁徳天皇はある日、民家からかまどの煙が出ていないことを見て、民が貧しい生活を強いられていることを悔いました。
そこで三年間、税の徴収と労役を取りやめる御布令を出しました。
そして、自身の生活も質素を心がけたのです。
また、土木工事を行って河川の氾濫を抑えたり、用水路を作って田地開拓をしたりと、国による大規模事業を初めて行った天皇です。
(サイト「趣味時間」参照)
名前 |
若宮八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-343-3957 |
住所 |
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評価 |
3.6 |
いつも感謝です。
ありがとうございます。