沼田藩主2代真田信吉の側室慶寿院。
慶寿山 本隆院 妙光寺 / / / .
真田家ゆかりのお寺ということでお参りさせてもらいました。
若住職さんがいろいろと説明して下さって、すごく親切な方でした。
すぐそばに幼稚園があり、子供の声が聞こえる明るいお寺でした。
こちらには、悪名高い沼田藩四代藩主、真田信直の母であった慶寿院殿のお墓があります。
信直は真田信之の孫に当たり、沼田城主であった父の信吉亡きあと、兄が家督を継いだため、月夜野町小川の城に、母と暮らしていました。
その兄も幼くして亡くなりますが、信直はまだ三歳であったので、叔父の信政が沼田城主となりました。
これに不満であった慶寿院は、事あるごとに信直に対し、城主たるべき身分であると言い聞かせ、溺愛しました。
このことが、のちに沼田藩の悲劇を生むことになります。
明暦2年(1656年)沼田藩の本家である松代藩の真田信之が隠居。
これを叔父の信政が継ぐことになり、ようやく信直は沼田城主となりました。
ところが、これに信直は飽き足らず、本家の松代藩の藩主の座に野望を抱きます。
息子大事の慶寿院も、幕閣に手を回して運動しましたが、隠居していた信之が乗り出して阻止。
母子の野望は果たせませんでした。
ここから、沼田藩の悲劇が始まります。
信直は十万石の本家松代藩に対抗意識を燃やし、領内に強引な検地のやり直しを行って、三万石の小藩である沼田藩の石高を十四万四千石であると幕府に申告しました。
この無謀な虚勢は、当然ながら領民への負担となり、重税を課された人々は、塗炭の苦しみに喘ぐことになりました。
年貢を滞納した 領民は妻子ともども縛り上げて水牢に沈めるなど、残酷極まりないやり方に耐えかねた杉木茂左衛門は、意を決して直訴に及び、沼田藩は改易となりました。
餓死者まで出したという暴君の母として…慶寿院殿は名を残すことになりました(;_;)/~~~
日蓮宗。
西暦1667年(寛文7年)沼田藩主真田伊賀守信利の母、小野お通が伽藍を再建しました。
沼田藩主2代真田信吉の側室慶寿院。
名前 |
慶寿山 本隆院 妙光寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0278-22-3445 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.5 |
山門がとても立派です。
神社仏閣建立の宮大工が何ヵ月にもわたって仕上げた立派な山門は六本木ヒルズ最上階億ションより高額です。
是非一度御覧下さい。