権現山城は尾根に沿って曲輪が配置されていて線路を挟...
昔は線路を隔てた西側の本覚寺と尾根続きだったのですが港湾埋立やお台場に埋め立てられてしまったそうです。
横浜駅周辺の街やJR線や京急線の眺めが気持ち良いです♪桜がきれいだったので写真追加します♪
向かいの青木城(本覚寺)と尾根沿いに連なるお城だったとのこと。
明確な遺構というわけにはいきませんが、高台になっていて、城跡なんだろうなと。
尾根を1号線と線路にぶった切られて、とのことですが、旧東海道は400mほど東に行ったところに神奈川本陣跡の説明板があり、そちらの方が昔のメイン通りということにて。
上ってみると、本覚寺と同じ目線。
道や線路で分断されたと聞けば納得です。
遊具はある、桜もある。
花見などで賑わうにぴったりですね・・
権現山城は尾根に沿って曲輪が配置されていて線路を挟んで反対側の本覚寺にまで曲輪がありました。
現在は遺構がとても少なく、現在公園になっているところは二の丸があったと推測されます。
運動場がある方の入り口には虎口があったと推測されます。
安政年間に山が削られてしまいましたが、勝海舟が設計した神奈川台場の築城に使われたと言われています。
もともと本覚寺のある高島台と権現山は一体で、青木城と権現山城があった。
権現山は神奈川台場(勝海舟設計で、市場近くに遺構が残る)を作る際に削られ、更に国道と鉄道を通すための切り通しが彫られた為に高島台とは別々の高台になった。
現在権現山には公園などが整備されている。
権現山城では、戦国時代に大きな戦(扇ヶ谷上杉vs元家臣の上田氏)があり、北条早雲も一枚噛んでいた。
その頃の面影はまったくないと言って良い。
いつも朝のウォーキングで訪れる場所です。
朝日も素晴らしいです。
電車好きは飽きないかもしれません。
よく見えます。
公園の高台も城があった事を感じられます。
伊勢宗瑞(北条早雲)の相模侵攻に呼応した上田蔵人入道が拠った城で、麓の神奈川湊と東海道を抑える場所に築かれています。
最近の研究では、城跡は幸ヶ谷公園付近ではなく、幸ヶ谷小学校グラウンド辺りに存在したとされ、20世紀初頭の開発によって丘が削られて低くなったとのこと。
なお、江戸時代の絵には小高い丘の様子が描かれています。
現在、城に関わる遺構は丘が削られたため、まったく残されていません。
山の上が公園になっていて見晴らしが良いです。
城の遺構としては、もはやわかりません。
又の名を神奈河城、永正7年に生起した権現山合戦の舞台となった場所。
公園内には支那事変での戦死者を慰霊する石碑が建立されている。
駅から近いく、広くはないが雰囲気のよい公園。
眼下に電車が走るのが見える。
「神奈川宿歴史の道」の案内板があります。
戦国時代、当時の関東の支配者 上杉氏の家臣であった上田蔵人は、北条早雲に味方し謀反を起こして、この山に砦を築いて立て籠もりました。
この周辺では、ビルを除いて一番高い場所です。
過去に城が所在していたのもうなずけます。
JR線、京急線ともに良く見えます。
公園の中を吹く風が心地よいです。
現在公園になっています。
崖状の所で猫ちゃんがガサガサとよじ登ってた💦💦
戦国時代、関東管領上杉氏と北条早雲がこの地で争った古戦場。
城というより砦のほうが近いのかな。
また幕末期、神奈川台場の埋立でこの山の土砂が流用され、戦国時代当時より低くなっている。
のんびり出来る公園。
昔この地にあったらしい、現在は公園になっており売店あり。
展望もそこそこあります。
城の説明板がありました。
野良猫も何匹かいます。
名前 |
権現山城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
045-671-3284 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ

現在の幸ヶ谷公園は扇谷上杉氏の重臣・上田政盛の居城・権現山城のあった場所と伝えられる。
政盛は北条早雲に寝返ったため、扇谷、山内両上杉連合軍に攻められ、権現山の戦いを引き起こした。
この戦いは珍しく早雲が負けている。
権現山と言っても、ちょっとした高台に過ぎない。
頂部が広い平地になっていて、主郭跡だろうか?(写真2~4枚目)。
北側の一段低いところにも平地があって副郭のようにも見えるが、公園造成時のものだと思う(写真5~7枚目)。
旧東海道に面した南側にも曲輪があったと思うが、地形が変化していて詳細は不明。
遺跡の破壊は幕末にすでに始まっていて、神奈川台場建造の際に権現山が大幅に削り取られ、埋め立て用の土に使われたという。
かつては西側の青木城と尾根伝いにつながっていたとされるが、明治時代の東海道線の敷設で分断されたようだ。
青木城との関係はよく分からない。
城の南側に旧東海道が走っているから、交通の要衝だったことは間違いない。
江戸後期の「金川砂子」(かながわすなご)の挿絵には東麓の宗興寺から権現山山頂に至る長い石段が描かれているが(写真8枚目)、宅地造成で丘が切り崩され跡形もない。
今では想像もできないが、東南麓は海岸線にかなり近かった。
写真1枚目は青木城のあった本覚寺から見た権現山の丘陵。