一般家屋の直ぐそばにあってびっくり。
一般家屋の直ぐそばにあってびっくり。
なとりん号のバス停もあったので、バスでも行けると思います。
名取市の史跡です。
竹林の中に佇む良い雰囲気の場所です。
手入れも行き届いているようで、駐車場もあります。
源氏物語の光源氏のモデル。
なのに雑な扱いだなぁと…。
も少し綺麗に整備しないと浮かばれない。
名取市は良い観光財源あるのに放置とは…。
西行法師、松尾芭蕉、正岡子規も訪れた有名な歌枕です。
実方はイケメンだったらしい。
しみじみと過去に想いを馳せる。
周囲に囲いがあり、少しだけ土盛りのようになっていて印となる木が植わってます。
地元の人にとって印象的な出来事で伝わったのでしょう。
朝廷に縁がある貴族亡くなる様子と墓が残る珍しい例だと思います。
竹林の中に佇む良い雰囲気の場所です。
手入れも行き届いているようで、駐車場もあります。
奥の細道 第15の段 「笠島」藤原左近衛中将実方の墓地です。
奥の細道の旅では西行の歌枕「朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて枯野の薄(すすき)形見にぞ見る」であるこの地”本文:かた見の薄”を目指します。
奥の細道では、右に笠島がありますので、物語の流れとしては、一端北に抜けた後、南下して次の段、武隈の松を見ることになります。
芭蕉が人生最後に創作した句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」はこの地を詠んだ句と手前は推測しています。
ここで詠んだ句は笠嶋は いづこさ月の ぬかり道手前訳(意訳)「実方の塚はどこでしょうか。
五月雨が道を隠してしまいました」これは実方がこの地に来るきっかけとされる歌「桜がり雨は降りきぬ 同じくは濡るとも花の陰にかくれむ」にちなんで詠まれたものとしての推測です。
こちらの話は次の「武隈の松」話と深く関わりますので、そちらで説明します。
下野路では「ほととぎす」が重要語句でしたが、奥羽路では「五月雨」が重要語句と推測します。
手前の「奥の細道」解釈の目的は”木曽殿と塚を並べて”の理で、芭蕉は江戸幕府の諜報員説を推しています。
芭蕉は自らが諜報員もしくは、諜報活動を偽装するために旅の費用と引き換えに片棒を担いだと定義して解釈しています。
以下はその定義に基づく勝手な妄想です。
この段では文学的な解釈とは別に、伊達家の動向を示唆する表現があるように思えます。
みのは(蓑輪)→美濃の国 奥の細道最終の段は「美濃の国大垣」大垣城は関ヶ原の合戦の折、西軍の本拠地でした。
身つかれ侍れば、よそながら眺めやりてすぐる。
→伊達家の財政が疲弊していて、徳川綱吉の横暴を機転とした謀反の好機も兵が起こせません。
五月雨→全てを朽ちさせる雨と言われています。
ところで、ご覧の皆様は源頼朝がどのようにこの世を去ったかご存じでしょうか?吾妻鏡をご覧になった方はあまり多くないと思われますので、正解を書きますと藤原実方同様「落馬」です。
頼朝の死後、北条家は頼朝の忠臣だった、梶原家、比企家そして、坂東武士の鑑と謳われた畠山家まで謀殺し、幕府の権限を手中に収めることとなります。
ちなみに徳川家は頼朝同様、源義家の末裔です。
これはかなり根拠の乏しい”こじつけ”ですが、「笠原」は頼朝の暗示、さらに幕府を北条家に乗っ取られたことを示唆。
簑輪・笠嶋も五月雨の折に触れたり→美濃の集結(反徳川軍)・北条家の野望も五月雨(時代の流れを示唆か?)に打たれて朽ちてしまったようです。
すなわち、実方の墓に行かなかった事は「伊達家に謀反の動きはない」ということを意味していると解釈しました。
実方の話を追記しておきます。
実方は殿上(でんじょう)での諍(いさか)いが 勅勘(ちょっかん)を被り、「枕詞にある陸奥の3松のうち、阿古耶の松の所在が分かりませんので、確認してきなさい」と陸奥守に左遷されたと云うことですが、実際はこの地に必要な人材の赴任だったようです。
阿古耶の松を求めていた実方の夢枕に塩竃明神(?)が立ち、阿古耶の松の所在を知らせます。
夢枕に立つ話は、後醍醐天皇の「楠正成」、玄奘(三蔵)法師の「赤い馬」そして道元禅師様の「法常禅師の梅一枝」など眉唾とは思えない話もあり、手前は実在すると考えます。
勇んで確認に向かう実方はここから午の方に半里先の道祖神の前を通った時、落馬して命を落とします。
阿古耶の松は方角の違う出羽の国(笹谷峠越え?)にあるとされますので、夢枕に立ったのは塩竃明神かどうか怪しいところです。
阿古耶の松の話は下記の内容だったと思います。
過去に調べた資料を紛失してしまったため、他の話と混合している可能性がありますので、興味のある方はきちんと調べて下さい。
信夫(現福島市)の領主の娘、藤原阿古耶が琴を奏でていますと、笛を調和させる者が現れます。
阿古耶はその男と逢瀬を重ね恋に落ちます。
しかし、ある日突然男は現れなくなります。
男は流されてしまった名取川に新たに架けられる橋の人柱にされてしまったのです。
この橋に打って付けの松が出羽の国で見つかり、運ぼうとしましたが動きません。
神官の夢枕に松の精霊が現れ「阿古耶が来れば木が動く」とのお告げがあり、阿古耶を木の床に招くと恋に落ちたあの男の面影が現れたそうです。
阿古耶はただ泣き崩れる事しかできませんでした。
木は運ばれ橋は無事完成しましたが、阿古耶は切り株の側に若松を植え、庵を構え一生を掛けてその男を弔ったとのことです。
その若松が成長した松が俗に云う「阿古耶の松」です。
もしかしたら、二人の聖地をそっとしておいてもらいたい二人の怨霊が実方を陥れたのかもしれません。
実方は古き良き時代のモータースポーツの傑人エンツォやゲルハルトのような恋愛感情でしたので、二人の恋と正反対の実方は二人の聖地に招かれざる客だったのでしょう。
意外と、さみしい場所にあります。
当時はもっと寂しかったに違いありません。
芭蕉が見つけられなかったところです。
すぐ近くにバス停がありますが 本数が少なく 予め確認してくださいね。
いろいろ案内板があり親切ですが 訪れる人は 少ないと思います!
さすがにお墓参りは止めといた。
古墳みたい。
芭蕉と曽良の代わりに見に行った実方中将の眠る地。
じわりと辞世の句が泣けてくる。
墓より案内看板がの方がデカい。
実方の辞世の歌「みちのくの阿古耶の松を訪ねわび身は朽ち人になるぞかなしき」(藤原実方)
以下は全て Wikipedia からの引用。
松尾芭蕉も曽良とともに当社と実方中将の墓を目指して旧暦5月4日(現在の6月20日頃)やってきた。
しかし、五月雨にぬかるんだ道は、長旅により疲労した二人の体には重いものがあった。
そのため二人は佐倍乃神社と実方中将の墓への参拝を断念し「笠嶋は いづこさ月の ぬかり道」と一句詠み、神社や中将の墓のある当たりを眺めるにとどまったという。
この墓の西側の民家裏に小さな神社があり、その神社が合祀前の佐具叡神社の元宮である。
実方中将は一条天皇の御前で騒動を起こし、天皇の勘気を受け陸奥国へと左遷されることとなった。
この元宮の前(一説には佐倍乃神社の前とも)を実方中将が乗馬して通った時、土地の民が「このお社の神は霊験あらたかで、賞罰をはっきり示される神です。
どうか下馬して再度参拝してからお通りください」と告げた。
中将が「この社の神はどのような神か」と聞くと、土地の民は「京の都の賀茂の河原の西で、一条の北に坐す出雲路道祖神(現在の京都市上京区の出雲路幸神社)の娘です。
大切に育てられ、良き者がいれば嫁がせようとされていましたが、商人に嫁いだために勘当され、この国へ追いやられたところをこの地の人々が神として崇め祀ったものです。
身分の上下や男女問わず、願い事があるときは男根型の物を作って奉納し祈願すれば叶わない物事はないでしょう。
どうぞ下馬した上で参拝し故郷へお帰りください。
」と答えた。
それを聞いた中将は「なんて下品な女神だ!そんな神の前で下馬して参拝するには及ばない。
」と言い、そのまま馬に乗り走りだしたという。
神はそれを聞き大いに怒り、馬ともども中将を殺してしまったという。
死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされる。
また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)。
名前 |
藤原実方朝臣(実方中将、平安時代 )の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/kyouiku/node_28152/node_2396 |
評価 |
3.7 |
芭蕉は辿り着け着けなかった場所なのですね。