城の守護神として祭ったものです。
江戸時代に書かれた算術の絵馬があります❗
この社は、岩櫃城主であった吾妻太郎行盛が、城の守護神として祭ったものです。
境内の大杉は、天明3年の浅間山大噴火の際、熱泥流で焼かれた為、上部を切り取り、若杉を植えたもので、親子杉となっています。
もともとは日本武尊が東征の折り、手づから植えたものだと言われ、焼かれる以前は、この杉に白蛇が住んでいたと伝えられています(^_^ゞ
三島鳥頭神社(みしまとっとうじんじゃ)御祭神 倭健命 大穴牟遅神合祀神 大物主命 誉田別尊 木花佐久夜姫命 宇迦之御魂神 天水分神 鳴雷神 素盞嗚命 菅原道真公 溝咋比売命 建御名方神 八坂刀売命 大山祇命 水波能売命 軻遇突智命所在地は、もとの岩島村大字三島字唐堀の中央に位置します。
境内には、右手に神楽殿があり、その奥に神社に背を向ける形で大きめの末社石祠があります。
更にその奥に八幡宮。
鳥居付近には大国主命や岐神の石碑が祀られ、境内左手には神武天皇遥拝所があります。
狛犬は年代不詳で、阿と吽で全体に造りが全く違うものが安置されています。
鳥居の前から参道に杉などの大樹が何本も聳えています。
拝殿には目貫彫刻や、木鼻・狛犬と象、本殿の目貫彫刻、木鼻・狛犬と象、正面扉脇彫刻、蝦虹梁・手挟・連三斗彫刻、左右軒下彫刻類などがあり、素晴らしいものです。
四戸の獅子舞(道中獅子)地区の古記録によれば、四戸の獅子舞は江戸時代末期の嘉永五年(1852)9月19日、三島の鳥頭神社例祭に、四戸・生原(おいばら)両組が共同して獅子舞を奉納したのが始まりといわれています。
その年は、農作物が極めて豊作、その上天下も安泰とあって両組の氏子は神様にお礼をしようという気持ちから、両組で協議書を取り決めて、今後毎年鳥頭神社例祭に獅子舞を奉納することにしました。
以降、両組は順番に宿を受け持って奉納してきましたが、明治18年(1885)に大火災があり、四戸組に保管してあった獅子頭や付属品まで全て消失してしまいました。
それで当時の四戸組の高橋楽治郎・高橋熊蔵両氏が中心になって自分たちの手で丹精込めて彫刻や塗装したりして一式を仕上げ、その後も獅子舞を継続することができました。
四戸・生原両組で始めた奉納も、いつしか四戸組だけとなり現在に至っています。
奉納を奉仕する主体は四戸実業会から組全体の保存会となりました。
舞子は子供が主体ですが、以前に比べて人数も少なくなり、平成二年は大人も加わるなどして苦労しました。
祭典が近づくと子供たちは「よび太鼓」といって太鼓をたたきながら練習開始を告げます。
公民館で何日も練習し、祭典前日の午後より「ぶっ揃い」といってはじめて頭などをつけて舞の仕上げをします。
そのあと組内総出で、紙垂を切る人、わらじの手入れ、獅子頭をクルミの実で磨くなど準備をします。
(「吾妻町の民俗芸能」に記載された由来伝承等の一部)三島鳥頭神社の太々神楽多々神楽は三島鳥頭神社が村社に昇格したのを記念して、大正元年(1912)仮説の舞台を作り、熊野講社多々神楽の神楽師に依頼し奉納したのが始まりとされています。
鳥頭と書いてとっとうと読むようです。
広い境内はとてもキレイにされていて地元の方々に大事にされているのだなと感じました。
本殿は保護のためか覆い屋の中にあります。
彫刻がとても見事だったので覆い屋の隙間から一生懸命見てしまいました。
四月二十九日には太々神楽が、十一月三日には太々神楽と獅子舞が奉納されるようです。
なんと神楽と獅子舞は同時に行われるようで、とても賑やかな光景が繰り広げられるらしいです。
こういった風習はきちんと受け継がれてずっと続いて欲しいと思います。
鳥頭と書いてとっとうと読むようです。
広い境内はとてもキレイにされていて地元の方々に大事にされているのだなと感じました。
本殿は保護のためか覆い屋の中にあります。
彫刻がとても見事だったので覆い屋の隙間から一生懸命見てしまいました。
四月二十九日には太々神楽が、十一月三日には太々神楽と獅子舞が奉納されるようです。
なんと神楽と獅子舞は同時に行われるようで、とても賑やかな光景が繰り広げられるらしいです。
こういった風習はきちんと受け継がれてずっと続いて欲しいと思います。
名前 |
鳥頭神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
4.2 |
It is nicely maintained. The komainu are unique and so is that structure painted in an specific blue - I like how the sunrise hits it from behind.