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群馬縣管下上野國南勢多郡五代村字大宮 村社 五代神社御祭神 豊城入彦命 市杵島姫命 大物主命 八重思兼神 菅原道真公 素盞嗚命 譽田別命 速玉男命 事解男命 伊弉冊命 大山祇命境内末社 神明宮(大日孁命) 秋葉神社(迦具土命)(「上野国神社明細帳」より抜粋)豊城入彦命を祭った字大宮の赤城神社に、字天神から菅原神社と、その末社八坂神社・八幡宮・字嶺久保の厳島神社、その末社菅原神社、字社口にあった思兼神社、字大宮の琴平宮、その末社熊野神社・大山祇神社を合祀し、村社五代神社と改称したのが、明治四十年四月であった。
境内は東西二十間南北四十五間、五百九十九坪、二段に区切られた北部に、一段高く社殿が建つ。
本殿は、九尺四方萱葺入母屋造、拝殿は本殿と離れて、萱葺入母屋造三間二尺に二間の平(ひら)の向拝が附いている。
この拝殿は、本村に数ある社寺中、珍しく出組の枓組がある。
それに向拝柱は大へんに強い面がとってある。
屋根のたたずまいなど。
見かけに古びた感じがする。
江戸時代の末期を上らぬようであるが、本村中で最も好ましい建物である。
社地は、五代町の北部と南部の境界にあり、かつては四百年位の松や杉の古木が欝蒼と茂っていたが戦後の台風で倒れ、やむなく伐採い現在の広場となった。
祭日は、一月と三月、八月と九月の二期に分かれていた。
その外に十月の秋祭り(十五日)がある。
祭日の行事は神官が祝詞をあげ、各家では、赤飯を炊いて祝う。
また、赤飯は神社にもっていってハンビツの中に供え、既に供えてある赤飯をオミゴクとして貰って帰るしきたりとなっている。
また、祭りの日には相撲、盆踊り、八木節などがあり大変な賑わいであったそうである。
今では懐かしい思い出である。
現在の社殿は、昭和四十年頃茅葺屋根にトタン板を被せ改築され、広場も併設された。
また、境内には立派な公民館が昭和五十四年三月に建設され、地域の文化センターの役割を充分果している。
最近では、祭りが復古兆で子供会が中心となってKK子供祭りが行われ、町内中を樽神輿二基でねり歩き古老たちを悦ばせている(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
『社地は、五代町の北部と南部の境界にあり、かつては四百年位の松や杉の古木が欝蒼と茂っていたが戦後の台風で倒れ、やむなく伐採い現在の広場となった。
氏子は五代町住民全員で、氏子総代は五人である。
また、社守は各組から一人づつで、一年任期の輪番制である。
役員になると、祭りには寄付を集めたり、祭典の行事一切を行う。
祭日は、一月と三月、八月と九月の二期に分かれていた。
その外に十月の秋祭り(十五日)がある。
祭日の行事は神官が祝詞をあげ、各家では、赤飯を炊いて祝う。
また、赤飯は神社にもっていってハンビツの中に供え、既に供えてある赤飯をオミゴクとして貰って帰るしきたりとなっている。
また、祭りの日には相撲、盆踊り、八木節などがあり大変な賑わいであったそうである。
今では懐かしい思い出である。
現在の社殿は、昭和四十年頃茅葺屋根にトタン板を被せ改築され、広場も併設された。
また、境内には立派な公民館が昭和五十四年三月に建設され、地域の文化センターの役割を充分果している。
最近では、祭りが復古兆で子供会が中心となってKK子供祭りが行われ、町内中を樽神輿二基でねり歩き古老たちを悦ばせている』(「芳賀村誌・芳賀の町誌」より抜粋)
神社のある五代町には、一種の浦島伝説があるそうです。
昔々、この辺りに碁の好きな老人が住んでいました。
ある日、老人が薪を拾いに山へ入ると、美しく長い髭を垂らした仙人が、一人で碁を打っていました。
老人は矢も盾も堪らず、相手をしてくれるよう頼み、やがて勝負に夢中になって、時の経つのも忘れてしまいました。
ようやく勝負がついて、老人は仙人を負かし、意気揚々と村へ下りてみると、荒れ地は田畑と変わり、行き交う人々は知らない顔ばかり。
老人が仙人と碁に熱中しているうちに、五代も時が経過していました。
そんな言い伝えから、いまも五代町となっているそうです(*^^*)なお神社と同じ敷地内には「うみ」や「チューリップ」などの童謡の作曲家として知られた井上武士の顕彰碑もあります(^_^)v
名前 |
五代神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
027-269-5361 |
住所 |
|
評価 |
3.3 |
鳥居を潜ると公民館がありその先に社殿があります。
狛犬は愛嬌があるお顔立ちで、社殿の裏側には、石碑や末社がありその中でも青面金剛塔の石碑が大きくて迫力がありました!!