南側から入る道と案内の石碑はあります。
大倉館跡.主(あるじ)源義賢のお墓を訪ねました。
源義賢、朝日将軍木曽義仲、清水冠者源義高、三代の地へ行ってきました。
頼朝に関わる人達に合掌礼拝。
令和5年5月6日。
源義賢公の墓と伝わる五輪塔。
埼玉県最古のもの。
ただしこの墓は源義賢公の所縁の者が供養の為に建てた可能性が高いようです。
源義賢墓は民家の前にあるので、南側から入る道と案内の石碑はあります。
古い五輪塔ですが、そこにある説明板の文字が消えかかっていて侘しいです。
県史指定史跡なのでもう少し手を入れてください。
源義賢はあの木曾義仲のお父さんですからね。
草が生い茂った長閑な場所にある木曽義仲の父の墓。
上里町帯刀にも義賢の墓があるが詳細不明。
なお駐車場は無し。
こんなに身近な所にあったとは知りませんでした。
もっと歴史を勉強したくなりますw
源氏の源流のお墓で、モニュメントや案内板が設置されています。
説明の中で記憶に引っかかるのは木曽義仲だと思います。
義賢が討たれた後、遺児の義仲は木曽に送られ成長、平氏討伐の命旨を受けて京都に入ったが、源範頼・義経軍に敗れたのは歴史で学んだ気がします。
意外なところで歴史に触れました。
欠損があるものの、かなり古い五輪の塔で、源義賢の墓と言われている。
近隣の史跡を見て回ると、本当にこのあたりの人々が義賢を慕っているという事が痛いほど分かる。
民家の傍らに風雪、火に耐え今に至る五輪塔が佇んでいます。
埼玉県内最古の五輪塔だそうです。
大蔵合戦で敗れた源義賢(木曽義仲の父)が眠る。
すぐ近くに義賢が住んでた大蔵館(大蔵神社)や木曽義仲生誕地がある。
資料によると、源義賢は源為義の次子(源頼朝の叔父にあたる)で、近衛天皇が皇太子の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生(たてわきせんじょう)と称し、その後東国に下り、上野国多胡館を本拠地としていましたが、更にその後にここ嵐山町大蔵の大蔵館に移住してきました。
久寿2年(1155)に大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太義平と争い討たれたといいます。
この騒動は大蔵合戦と呼ばれています。
とあります。
観光案内板にこの場所を見つけ、訪ねました。
最初、場所がわかりませんでしたが、案内表示はあります。
古い五輪塔が覆屋の中に保存されてます。
個人のかたの敷地内になるため、配慮も忘れずに。
源義賢の墓とされる五輪塔。
欠損はあるものの立ち寄ってよかった。
因みに向かいにあるのは新しいやつです。
その反対側にある鳥居の先に見えるお堂がこちらですよー。
入り口に草が多くあり、中には入りませんでしたが、埼玉県最古の五輪塔があるそうです。
手入れが行き届いてなくてとても残念。
木曽義仲の父であり、近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生と呼ばれた平安時代末期の河内源氏の武将・源義賢殿のお墓🙏武蔵嵐山駅からかなり離れた民家地区にあるので徒歩で行くと20分くらいかかる🍀🍀案外小さなお墓だが貫禄があり素晴らしくて県の指定史跡に指定されているから見応え大である🦉
関東に源氏が根付くきっかけになった人物の墓です。
一族の内紛で亡くなった、乱世らしいお話が伝わる場所です。
名前 |
源義賢墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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源平合戦で活躍した木曾義仲の父、源義賢の墓とされる。
義賢は付近の大蔵館を拠点としていたようで、兄の息子で甥である源義平に討たれた。
菅谷館に向かう途中で気付き、訪問。