仏師定朝の父康尚が開所し、定朝が寄せ木造りを完成。
内浜部落と言われたこの場所に仏所があることで、江戸時代の身分制度で仏師が賤民とされていたことが分かる。
大仏師・定朝(生年不明 - 1057年没)の墓所は船岡山の西, 千本鞍馬口上ル西側の上品蓮台寺(ジョウボンレンダイジ) にありますね。
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先祖の仏師一族が江戸時代末期に山形からここへ修行にきたといわれています。
どのような場所だったのか、そこでどう思ったのかを感じたくなり、京都旅行の際に寄りました。
仏所は江戸時代より前にここから四条烏丸というところに移転し、江戸末期には衰退したと説明がありました。
仏所跡をきちんと残していることから京都と仏像の結び付きを感じました。
東北の片田舎の仏師が技術に憧れて京都までくるのには相当な決心と苦労があったのだろうと思います。
来るだけなら今でこそ1日もあれば十分ですが、どのくらいかかったのだろう、どういう暮らしをしながら技術を学んだのかなど思いをはせました。
七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと) この地は、平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝をはじめ、その一族・子弟・子孫が長く居住して彫刻に励んだ「仏所」のあった所で、「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。
定朝は、平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、「和様」と呼ばれる優れた彫刻様式を完成したほか、卓越した技術によって僧綱位の法橋を与えられ、仏師の共同組織として仏所の制度を整えるなど、仏師の社会的地位の向上に努めた。
これらのことから、定朝は我が国における仏師の祖と仰がれている。
鎌倉時代に入って、この仏所から運慶・湛慶・快慶らが相次いで現れ、剛健な、また写実的な多くの名作を世に送った。
しかし、室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、この仏所も二十一代康正のとき四条烏丸に移転した。
その後、幕末の兵乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われた。
平安時代中期に活躍した仏師達が彫刻に励んだ所。
仏師定朝の父康尚が開所し、定朝が寄せ木造りを完成。
定朝様を産んだ工房の跡 現在は民家で、説明板のみが残る。
最盛期は171人の工人を抱え、運慶、快慶などの著名仏師を生む。
定朝の墓所は、千本鞍馬口の上品蓮台寺に…
名前 |
七条仏所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒600-8146 京都府京都市下京区七条通間之町東入材木町485 |
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=291 |
評価 |
4.0 |
七条通に面した所。
駒板の仏師定朝のお墓は紫野の上品蓮台寺にあります。