服部神社の祭神です例祭は蛇祭悪蛇を退治するという各...
奈良市内 #倭文神社 参拝。
春日大社系・藤原氏の一族が769年に勧請。
一帯の古地名は辰市郷。
境内に #蛇塚神社 が鎮座。
#大蛇伝説 が残されています #ヤマタノオロチ伝説 #スサノオ #龍頭山西福院 #物部氏 (検索、ものづくりとことだまの国、2020年12月18日)
氏子さん達がもっと氏子でない人や初めて参拝された人を受け入れてくだされたら嬉しいのですが、、田舎らしさがあってある意味いいのかな。
倭文神社祭神 武羽槌雄命 経津主命 誉田別命所在地:奈良市西九条町二丁目十四の二神護景雲二年 春日大社御蓋山の頂に常陸・香取より経津主命が遷座し給ふ後、香取より従ってきた侍従社司 中臣連時風・秀行が此の地に居住し勧請したと云われ、その祖 武羽槌雄命を鎮祭したと伝わる。
社伝にはこのように伝わりますが、中臣・藤原氏と武羽槌雄命は何ら関係なく、もともと辰市郷に武羽槌雄命を祀る倭文神社が鎮座しており、藤原氏・春日大社の領地・荘園となり、その後、藤原四家の宇合の子孫・式家が当社の神主を務めるようになって自らの祖神・経津主命を追祀したと考えます。
式家の始祖・宇合。
恵美押勝の乱により一時衰退した藤原一族の中にあって、手堅い実務派として光仁・桓武天皇擁立に功績のあった二代目・百川。
式家・縁者が薬子の乱に加わったことから北家・冬嗣の後塵を拝することになりましたが、 新撰姓氏録や日本後記の編集に活躍する等、有能な実務派であったが故に左大臣にまで上り詰めた三代目・ 緒嗣 。
しかし、緒嗣の子二人(夭逝した長男の四代目・家緒、趣味に明け暮れ出仕しなかった次男の五代目・春津)は出世・物欲に淡白であったため式家は振るわなくなり、六代目・枝良は従四位上という傍系藤原氏の位階が与えられ、参議に列したので辛うじて公卿の地位を保つことが出来るまで零落し、春日大社の領地であった辰市郷にある倭文神社の神主を務めるようになります。
零落した式家六代目・枝良のもとに生まれた男児が「右衛門忠文」であり、いわゆる、 承平天慶の乱において平将門追討の征東大将軍となり出征(しかし到着前に平貞盛、藤原秀郷らにより将門の乱は鎮圧されていた)、翌941年征西大将軍として藤原純友の乱にも出征しこれを鎮撫。
式家では最後に歴史に光芒を放った忠文。
その子孫には 平家物語・吾妻鏡・源平盛衰記 に活躍が描かれる遠藤文覚がいるとされています。
倭文神社しずりじんじゃ奈良県奈良市 西九条町273祭神武羽槌雄神経津主神誉田別命武羽槌雄神織物の神、機織の神で全国の倭文神社静神社、服部神社の祭神です例祭は蛇祭悪蛇を退治するという各地にある伝承を祭礼化。
名前 |
倭文(しずり)神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33410 |
評価 |
3.5 |
倭文はシズリと読むそうで、知人に志津里さんがいたので関係あるかも?と気になりました。
その方のご主人が九州出身で親戚がいる程度しか分かりませんでしたが、深いルーツがあるのかな〜と興味深く感じました。