鳥居強右衛門の逸話に感動し、訪れました。
鳥居強右衛門が磔(はりつけ)され亡くなった場所です。
しかし実際の場所は石碑から数メートル離れた白い杭が打たれた所(写真②)だそうです。
長篠城のちょうど川を挟んだ対岸に有る鳥居強右衛門が磔になったと言われるとこです。
戦国の頃は、長篠城が良く見え、また城内からも強右衛門が磔になったのが見えたのかもしれないですが、現在では木が生い茂り、ほぼ長篠城は見えないですが、戦国の頃に想いを馳せれば感慨深いですね。
これは余談ですが、ここから長篠城へ徒歩で行く道順が持っていた史跡巡りの地図見てもわからず、現地の道を歩いても城には着かなそうで困りました。
結局Googleマップのナビで、なんとか辿り着くことが出来ました。
鳥居強右衛門の逸話に感動し、長篠城址史跡保存館から歩いて馬場信房の墓に寄りつつ詣でました。
長篠城址の対岸で、近くに橋が無いのでグルっと大回りする事になります。
武田勝頼率いる兵15000の武田軍に包囲された徳川方奥平家:長篠城/兵500、長篠城から脱出し岡崎城まで往復130㎞を駆けた鳥居強右衛門、織田・徳川連合軍/兵35000の来着を命を賭けて場内に伝令🏃長篠城向かいの当地訪問、木々が伐採されて寒狭川を挟んで長篠城址が見えれば、より臨場感があるだろうな~と個人的な感想😁⭐️鳥居強右衛門の子孫は江戸時代繁栄。
どなたかが、鳥居強右衛門のことを「現代版走れメロス」と評価していました。
彼は長篠城どころか、三河と尾張を救ってくれた英雄ですね。
この話を聞いた時、とても感動して、是非この方の亡くなった場所を訪れてみたいと思いました。
実際訪れてみて、とても良かったです。
私の今回の新城訪問のメインはここでした。
地元の方、よくぞ残して下さった!と思っています。
結局、彼は武田氏に処刑されてしまいましたが、信長さんや家康さんに直接会えた彼が羨ましいです。
ひとつだけ欲を言えば、川向こうの長篠城址が見えるように後ろの木を伐採してくれたら、と思いました。
忠義に厚い 日本人だからこそ 知っておいてほしい 最高の足軽さんです〜m(_ _)m
長篠設楽原合戦の史跡のひとつです。
長篠城攻防戦で有名な鳥居強右衛門の逸話が伝わる場所です。
田畑の畦道の先にあるのでクルマは遠めの安全な場所に停めて徒歩でアプローチが無難です。
以前から行ってみたかった場所に偶然通りかかりました。
忠義の人の最後の場所からはマツバウンランや第二東名が見えた。
私には真似出来ないし、今の時代真似するシチュエーションもないと思いますが、鳥居強右衛門の話は後世に語り継ぐものと考えますし、彼の魂そのものは彼ほどの事は出来なくとも何かしらの形で受け継ぐべきものと考えます。
そう思いながらそっと手を合わせる場所です。
鳥居強右衛門が磔にされた場所です。
場所を示す石碑と大きな説明板があります。
当時の物は何もないのは分かっていましたが、一度訪ねてみたいと思っていました。
ここから長篠城までは直線距離で100mもないのですが、他の方のクチコミにもあるように、沢山の木が植林されていて長篠城は全く見えません。
ただ豊川のせせらぎが聞こえるばかりです。
願わくば、長篠城が見えるところを作ってほしいと思います。
私は城側に援軍が来ることが知られてしまった以上、武田軍が強右衛門を処刑したことは単なる気晴らし以外、何のメリットもなかったと思います。
強右衛門が命懸けで援軍が来ること伝えたのに、ここで開城してしまったら強右衛門に会わせる顔がない、城兵はそう感じたと思います。
そして実際、長篠城は武田軍に二の丸まで攻め込まれながら、信長・家康の援軍が来るまで見事守りぬかれました。
これはまさに強右衛門がもたらした勝利といえるでしょう。
余談ながら、ここにある説明板は非常に大きく、飯田線の列車からも見ることができます。
そして説明板には落合左平次が描いた鳥居強右衛門の磔姿も載せられています。
列車の窓から強右衛門の磔姿を見ながら、長篠城から見た強右衛門の最期もこんな感じだったのではと思いました。
組織のために自らの命を差し出した強右衛門。
ひっそりとではあるが、しっかりとその終焉の地は残されていた。
鳥居強右衛門さんめちゃめちゃすごい武士(´・ω・`)ここまで車で行くなら慎重にです方向転換ちょっとびくびく(;・ω・)
高速道路で地区が分断されてるので行き難いのが難点。
案内板に詳しい説明があって、男気を感じた。
鳥居強右衛門の磔死の地。
鳥居駅から歩いて15~20分くらいで現地につける。
その後、長篠城址を訪れ、磔死地の確認後、JR長篠城駅から乗車し寒狭川近くにさしかかると、磔死地と長篠城の位置関係がつかめる。
JR飯田線の鳥居駅から歩きました。
まず鳥居強右衛門のお墓をお参りしてから高速道路の下をくぐり抜けて畑を横切って豊川の淵まで歩くこと約15分。
豊川を隔てた北東側が長篠城なので、川沿いの木々がなければ磔の状況は城兵からも見えたことかと想像できます。
ここから長篠城まで歩くには、元来た道を戻り高速道路をくぐり川橋を渡って遠回りとなります。
「とりいすねえもん」と呼びます。
〈長篠城内〉城主奥平信昌「武田軍15,000騎に対して我が方はわずか500騎、城攻めの包囲が始まって早半月、昨日は食料庫も焼かれて落城は直近。
鳥居強右衛門よ、死を賭して岡崎城の我が主人徳川家康様のところまで援軍の要請に行ってくれぬか?」鳥居強右衛門「必ずや主命を果たしてみせましょう」〜 鳥居強右衛門は主命を果たすべく闇に紛れて川を渡り武田軍の包囲網を突破して岡崎城にたどり着き戦況を伝えるとともに援軍の要請を行ったのでした。
すでに岡崎城には織田・徳川合わせて38,000騎の大軍が集結しており長篠城の救援に赴く準備をしていました。
鳥居強右衛門はこの様子を見て、援軍間近との報告を主人に行うために再び長篠城に帰って行ったのでした。
しかしその途中、鳥居強右衛門は武田軍の包囲網に引っかかり武田方に捕らわれてしまったのでした。
〜〈武田軍陣地〉寄せ手大将武田勝頼「その方、なかなかの者であるな。
もし我が言いつけに従えうのならば命を助けて我が家臣として高禄で召抱えてしんぜよう。
」鳥居強右衛門「へい、どのようなお言いつけも引き受けるので命ばかりはお助けください。
」武田勝頼「では、本丸側の寒狭川に立ち、城内に向かって援軍は来ないと大声で伝えるのだ、よいな」鳥居強右衛門「わかりました、私めを本丸の側まで連れて行ってください、お申し付けを見事果たした折には高禄でのお召抱えをお忘れなきようお願い申し上げます。
」〈本丸側、寒狭川〉武田勝頼「よいか、強右衛門、城内へ向かってわしが教えた通り、援軍は来ないと大声で伝えるのだぞ」鳥居強右衛門「城内の各々方、38,000騎の援軍が向かっておるぞ〜、後少しの辛抱じゃ〜。
」武田勝頼「なにを申すのじゃ、こやつ磔にいたせ、」〜 鳥居強右衛門の言葉に力を得た城兵は城を守り抜き、長篠の戦いでの織田・徳川連合軍の勝利の大きく貢献したのでした。
〜鳥居強右衛門は長篠城で最後を遂げましたがその子孫は奥平家で重用されました。
まさにミスター三河武士です。
このような三河武士が寄ってたかって集まって徳川家康を天下人に仕立て上げたのでしょう。
場所は分かりやすいが、駐車場は無し。
重要な史跡の為整備して欲しい。
一番近くの東名下トンネル付近に短時間駐車するしかない。
今回は徒歩で回ったが配慮して欲しい。
史跡の碑と説明文まで農道があるが車両は入れない方が良い。
2017年11月に訪問。
長篠の戦いの流れを変え、武田氏の運命を決定づけた「鳥居強右衛門公」の磔の場所です。
周辺は田んぼに囲まれた長閑な雰囲気です。
木が生い茂っているため長篠城は見えません。
駐車場はないですが、磔の碑近くまで車で行くことが可能です。
磔の碑以外に何かあるわけではないですが、長篠の戦いの史跡巡りには欠かせない場所だと思います。
近くに長篠城がキレイに見える「牛渕橋」もあります。
烈士鳥居強右衛門公の磔の場所です。
身が引き締まる想いがしました。
鳥居強右衛門の逸話に感動し、訪れました。
長篠城から見渡せる場所なのかと想像していたのですが木がありどこ?て感じでした。
でも、見に行けてよかった!
地図上は長篠城の近くですが、直接行くことは出来ません。
豊川の橋を渡って新東名をくぐって行き着くことが出来ます。
長篠籠城の攻防を知る上では長篠城祉とともに訪れたいところです。
名前 |
鳥居強右衛門磔の場 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/torii-suneemon.html |
評価 |
3.9 |
強右衛門さんの最後の地にお詣りできました。
今でも木立の間から長篠城を眺めることができます。