やたら長いトイレのガチムチ男性などがウロウロしてい...
洞爺丸台風海難事故慰霊碑 / / .
日本史上最大の海難事故、犠牲者は1500人を越えます。
今でも花が献花されていて、私も手を合わせてきました。
知床遊覧船事故にあわれた方々のご冥福をお祈り致します。
昭和29年から67年の時間の経過を感じます。
綺麗に整備されています。
洞爺丸はじめたくさんの青函連絡船が1954年9月末に発生した台風15号により、遭難・沈没し千数百人もの方々の犠牲者をもたらしたそうです。
詳しい資料は函館市青函連絡船記念館・摩周丸や青森市青函連絡船メモリアルシップ・八甲田丸でも展示されています。
(展示物は摩周丸の方が豊富だった記憶です。
)いさりび鉄道・七重浜駅から徒歩15分です。
夜は、半裸の中年男性、やたら長いトイレのガチムチ男性などがウロウロしているようです。
浜まですぐです。
五隻の台風🍃🌀☔海難者の慰霊碑です。
父方の祖父母がこの事故で亡くなりました。
死ぬまでにもう一度訪れたいと思います。
函館フェリーターミナルより車で5分。
国道228号線の海岸沿いにある慰霊碑。
昭和29年(1954年)の台風15号で洞爺丸など5隻の青函連絡船が七重浜沖で遭難。
死者・行方不明者が1500名を越えた日本海難事故史上最大の惨事。
この慰霊碑は湾を臨む七重浜に事故の翌年に建立されたものです。
かつて北海道への唯一の交通手段は国鉄青函連絡船がメインでした。
この事故があって青函トンネルや北海道新幹線につながっていることを忘れてはいけないです。
風化させてはいけない大切な事実です。
何度もテレビで事故の事を知り訪問したいと願っていた場所。
慰霊碑からは海岸に向けて沈没した5隻の船の位置が示されていました。
偶然にも私たちの訪問した日、、、ずいぶん人が集まってきたなと思ったら慰霊法要だったんです。
奇しくも66年前のこの日に海難事故があったと知りました。
後ろからそっと手を合わせ早々においとましました。
ご冥福をお祈りします。
大勢の人々が亡くなった災害の慰霊碑ですから切なくなります。
今後このような災害が起きないことを切に願います!
連絡船を愛する者なら、一度は訪問し感謝と哀悼の念を捧ぐべし。
海難事故に遭った方々への敬意が窺えました。
ここは日本人なら忘れてはいけない大事な場所だと思います。
この事件がなければ青函トンネルや北海道新幹線も実現できなかったはずです。
やっとのことで来ました。
黙祷m(__)m
📖洞爺丸事故1954(昭和29)年9月26日に青函航路で台風第15号により起こった、国鉄の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故。
死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ、日本海難史上最大の惨事となった11:05 午前中青森からの下り3便として運航を行っていた洞爺丸は、函館の鉄道桟橋第1岸に到着し、折り返し14時40分出航の上り4便となる予定であった。
近藤平市船長は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていた12:40頃 青森へ向かっていた渡島丸(貨物専用船)より海峡中央から「風速25m、波8、うねり6、動揺22度、針路南東で難航中」との通報が入る。
危険を感じた後続の第六青函丸・第十一青函丸は海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返した。
このうち第十一青函丸の乗客(米軍軍人・軍属が主)・車両を洞爺丸へ移乗させることとなったが、着岸・移乗作業に時間がかかり、またこの日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋(車両を載せるために船体後部にかけられる橋)が上がらず、出港の見通しがたたなくなったため、洞爺丸も15時10分に台風接近を恐れて運航を中止した。
しかしこの停電はわずか2分間のことで、程なくして可動橋は上げられたが、出港見合わせは取り消されなかった。
もしこのとき出港していれば、難航はしただろうが洞爺丸は間違いなく無事に青森に着いていたであろうと言われている。
わずか2分間の停電が、洞爺丸の運命を変えた17:00頃 函館では土砂降りの後に、風が収まり晴れ間ものぞき台風の目が通過したことを思わせた。
当時の函館海洋気象台の観測では気圧は983.3mbで、中央気象台の発表した台風の中心気圧より高かったが、風速は15:00に19.4mに達したのち衰え、17:00には17.3m、18:00にはさらに13.7mに弱まっている。
台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に絶対の自信を持っていた近藤平市船長は出航を決断17:40頃 出航時刻を18:30とすることを発表した。
しかし、これは台風の目ではなく実際には閉塞前線であったと考えられている18:25頃 洞爺丸は昇橋したものの、引き船5隻を用いて着岸に難渋していた石狩丸が係留し終わるのを見て離岸18:39 青森に向けて遅れ4便として出航。
乗員乗客は合わせて1,337人。
出航して間もなく、南南西からの風が著しく強くなる。
船長は投錨し仮泊することを決意18:55頃 函館港防波堤西出入口を通過して、風下に圧流されたため西向きに針路をとる19:01 天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上(真方位300度0.85海里)に投錨し仮泊。
しかし、平均して40m、瞬間的には50mを超える南西方向からの暴風と猛烈な波浪のために走錨する。
また、船尾車両搭載口より進入した海水が車輌甲板に滞留し、水密が不完全な構造だった車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこり、蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になった20:30頃 車両甲板上へ奔入する海水量の増加と船体の動揺により、作業員は甲板からの引上げを余儀なくされる。
開口部から機関室や缶室などへの浸水は進み、発電機は次々に運転不能となるとともにビルジ(船底に溜まる汚水の事)の排出もできなくなる21:50頃 左舷主機が運転不能22:05頃 右舷主機も運転不能となった。
両舷主機の停止で操船の自由を失った洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決める22:12頃 「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じた22:15 船長は旅客に救命胴衣を着用するよう事務長に対して指示を出した22:26頃 海岸まであと数百mの函館港第三防波堤灯柱付近の地点(267°、0.8海里、距岸約0.6海里、水深12.4m、底質砂)において、後部船尾が3回ばかり軽く撞触し座礁、船体は右舷に45度傾斜。
乗組員は座礁によって転覆の危険は回避されたと考え、乗客にもその旨アナウンスしたが、実際は船体が安定せず波浪によってさらに右傾斜を増していった。
座礁の報告を受けて青函鉄道管理局は救難本部の設置を決定。
補助汽船4隻(いずれも150t程度)を現場に向わせるが波浪激しく断念22:39 SOSを発信する。
しかし陸上の関係者は、このSOSは座礁したことによって発信されたものであると理解しえず。
この後、沈没にまで至ることを予想することはできなかった22:43頃 船体を支えていた左舷錨鎖が耐えきれず切断した。
この時点で復原力を失っていたとされるが、船底の横揺れ防止フィン(ビルジキール)が乗り上げた海底の砂に刺さったためであるともいわれている。
この時大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転した。
機関停止後もボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続け、船内は沈没5分前まで点燈していた22:45頃 函館港防波堤灯台付近の地点(337°、2500m)に右舷側に約135度傾斜し沈没。
最後には船体がほぼ裏返しで海底に煙突が刺さった状態になったといい、この洞爺丸だけでも乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となったこの事故では、国鉄本社での鉄道管理局長会議に出席する途中だった国鉄札幌総支配人浅井政治と旭川・釧路の鉄道管理局長も巻き込まれて犠牲となり、北海道遊説の帰途だった冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員も遭難。
元衆議院議員の冨永格五郎や元宝塚女優の佐保美代子などの著名人や劇団中央芸術劇場所属の6人の団員も犠牲者の中に含まれている。
逆に、当時中央競馬の調教師であった西塚十勝は、転覆した便の切符を持ちながらも私用で乗り遅れたこともありこの便には乗船せず難を逃れ、漫才師のWけんじの二人(東けんじ、宮城けんじ)も東が深酒し乗り遅れたために難を逃れ、一時期乗船が伝えられた川村善八郎衆議院議員も、その後誤報と判明し自身は遭難現場へと駆けつけている。
なお、激しい風雨や情報の混乱などで救助活動が遅れ、七重浜に打ち上げられた時点では生存していたもののそこで力尽きて亡くなった者が相当数いたという話もあり、「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死した所へ娘の夫から乗船せず無事という旨の電報が届いたという悲話も残る。
多くの犠牲者が一度に発生したことから既存の火葬場では処理が追いつかず七重浜に仮設の火葬場が設けられ、更に身元照会の混乱から遺族になりすまし補償金を詐取しようとする事件まで発生した。
事故直後「荒天での無理な出航は一等に乗船していた浅井総支配人及び旭川・釧路・青函局長らが国鉄本社での会議に間に合わせるために船長に出航を強要したものだ」との新聞記事が出され、後年になっても事故の一因として語られるが、これは一等から出航前に下船して事故を免れた乗客の放言によるところが大で、青函局長や乗組員の証言によると連絡船が遅れた場合に備えた切符の手配をしていたので、船長に出航を強要する必要はなかったと否定しているこの事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、蒸気機関への重油燃焼装置や自動給炭機の設置、客戴車両渡船(第十二青函丸、石狩丸)の車両甲板上にある旅客室の撤去による重心の低下化等が行なわれ、青函連絡船の運航についても、出航判断等それまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になり、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等の改善が図られた。
また、この事故以降に新造される連絡船の船体構造についても、主機関のディーゼルへの転換、車両積載口への水密扉の採用、車両甲板下の旅客区画の廃止、機関室から車両甲板への開口部の全廃、凌波性・復元性の向上、船底部水密区画及び水密扉の設置、操舵性向上のための二枚舵の採用等大きく設計変更され、それまでにも増して安全性に力が入れられた。
結果、その後1988(昭和63)年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはなかった。
なお、この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていく。
洞爺丸の船体は後日引き揚げられたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体された。
名前 |
洞爺丸台風海難事故慰霊碑 |
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ジャンル |
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4.3 |
子供の頃来たきりで久々の来訪です。