藩祖伊達政宗公が関ヶ原の役の節、上杉氏の家来甘粕氏...
たまたま通りかかって、初めてお参りしました。
小さな神社ですが綺麗に清掃されています。
御由緒四社神社は東八番丁(昔は大河原町)に鎮座し、昔、藩祖伊達政宗公が関ヶ原の役の節、上杉氏の家来甘粕氏との戦に政宗公に随いて柴田郡大河原より仙台に来り足軽鉄砲組として当丁に置かれたるに依り大河原町組と云い、其の後大坂冬、夏の陣の戦に初めて伊達勢として出陣し全員無事帰陣す。
是れ皆神の御守護に依るものとみなし、先住地の四社明神を勧請し現在に至る。
御祭神は底筒男命・表筒男命・中筒男命・倉稲魂命の四柱の神々です。
御神徳この四社御祭神は人間生活の根本を掌り拾う神々にて、殊に五穀豊穣の神、海上安全の神、開運の神、諸願成就の神として昔より一般の崇敬信仰厚き神様です。
昔からの言い伝えを挙げれば、支倉六右衛門(支倉常長)が政宗公の命に依りローマ派遣の節、当四社宮に長途の海上安全を祈願し無事君命を全うしたるを徳とし奉納せる賽銭箱がありましたが、永年風雨にさらされ破損し、その表板が当社に掛額として拝殿上部に保存してあります。
又伊達家より当大河原町足軽組に松前(北海道)勤番の命があり、組員三十六人は一ヶ年間、松前に勤務せる時(当時は松前に行って生還は容易ならざる事とした由、蓋し津軽海峡の荒天が左右せる事と推察す)全員無事帰国せるに依り奉納せる石燈籠一対は現在社前にあります。
又、当時の東照宮の祭典には各足軽組の内より毎年二組ずつ交代に御供行列する場合、その二組を先供、後供とに分かち、互いに先供を希望し、くじ引きの結果不思議にも常に当町足軽組が先供にて、後供に成りたる事無きと言い伝えられます。
又、明治時代に入りて臨時祭典を二回執り行われ、其の一回は同時市内にコレラ病流行せる節、当神社氏子区域内には一名の罹病者無き為に臨時祭典を為したりと。
又一回は日清戦争に我国の存亡を憂慮し勝利を祈願し、大勝利を得た節、臨時祭典を執行せられました。
祭典(大祭)現在、毎年5月の青葉まつり翌週の日曜日に、地域をあげて子ども会・町会・商会・小学校関係の方々が盛大な祭を開催しており、稚児行列・神輿渡御に約200人が東八番丁~連坊小路~東九番丁~東口方面を練り歩いています。
町内にある小さな神社。
名前 |
四社宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
022-286-5103 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
それは四柱の神を捧げたので、四つの聖域の名前です。
その起源は雅臣の早い年齢と年齢を超えています。
贈り物には、つぐらが献呈されているという。
小さくてもフェスティバルはうまくやっており、実際に祭りなどが行われています。
(原文)Ĝi estas nomo de kvar sanktejo ĉar ĝi dediĉis la dion de kvar-afiŝo. Ĝiaj originoj superas la fruan epokon kaj la aĝon de Masamuno. La donaco ankaŭ diris ke Tsunagura estis dediĉita. La festivalo estas farita nete kvankam ĝi estas malgranda, kaj la festivalo ktp fakte fariĝas.