御朱印は書き置きです。
徳川東照宮(太田市) / / .
尾島かるたの「と」を確認後、境内を見学しお詣りしました。
久能山は知りませんが日光、世良田、上野に名古屋東照宮は豪華、徳川家発祥地でないことを祈っている。
その名もズバリな徳川の名を冠する東照宮だが、世良田東照宮と比べると、いや、比べるまでも無く、相当に寂れた小さい神社である。
新田系の得川氏の館跡と云われています。
住所は徳川で徳川家康先祖の地と云われて、そこには東照宮がありもっとも由緒正しい東照宮です。
東側の畑の中に伝新田義重夫妻の古い墓があります。
社殿は普通の地域の神社と同じです。
(中は権現造りですかね?)徳川家康の経歴詐称の地です。
徳川氏発祥の地に鎮座する東照宮。
徳川の地にあるので、その名も『徳川東照宮』。
世良田東照宮の隣、長楽寺にある墓地に眠る徳川義季公の館があった場所とされています。
新田氏の系譜である徳川氏の歴史を知る上でも重要な地点です。
ここから愛知県松平郷へ流れ、三河一国を統治する大名へと登り詰め、ついには家康の代で天下統一を果たすというドラマが展開されます。
その後、家康をまつる東照宮が館跡に建てられたといういきさつがあります。
目の前には、徳川万徳寺もあり、徳川を知るには良い環境です。
御朱印は世良田東照宮で頂けます🙏
徳川家については諸説ありますが、徳川氏発祥地といわれる地方の、小さな、静かな神社です。
拝殿の後ろに御神木のケヤキの大木があります。
この東照宮は、元々、正田家が祀る氏神様だったそうで、拝殿は大正3年に永徳寺の権現堂を移築した物になります。
閑散とした神社でした。
でも歴史を感じる拝殿ですね。
旧村社。
御祭神:徳川家康公。
創建:寛永年間(1644年)。
資料によると、徳川氏始祖得川義季(よしすえ)(世良田義季)公から八代目である親氏(ちかうじ)公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなります。
得川郷(徳川郷)の生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをしました。
その時に親氏の領地を預けられたことで、以後生田家が徳川郷主となります。
親氏はその後、三河国の松平郷(現 愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点としました。
また、松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られています。
天正十九年(1591年)、徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現 埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられる。
同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけられました。
寛永二十一年(1644年)世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立しました。
これが徳川東照宮の始まりといわれています。
この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可されました。
祭祀は正田家が執り行っていました。
その後、明治五年(1872年)に邸内社であった東照宮の社地を徳川郷に寄進され、村社に列せられた。
明治四十年(1907年)十一月六日、郷内四社各末社が合祀されたことにより、徳川郷の鎮守として改めて崇敬されるようになりました。
大正三年(1924年)六月三日、徳川郷内の医王山永徳寺より「権現堂」を移築、それを拝殿とし現在に至ります。
とあります。
徳川と社号につく、徳川郷に鎮座する東照宮です。
徳川氏の館跡。
神社はあるけど、城の遺構はありません。
東照宮巡りで参拝。
御朱印は世良田東照宮にて頂けます。
御朱印は世良田東照宮の社務所で頂けます。
欄間の透かし彫りは重文クラスの出来なんですが塗りが剥げてしまってます。
味わいとも言えますが。
御朱印は書き置きです。
世良田東照宮さんでいただきました。
車で少しの所にポツンとあります。
世良田東照宮に隠れていますが堂々とした境内です。
御朱印は世良田東照宮で。
名前 |
徳川東照宮(太田市) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
群馬県太田市にあるRVパークへ、キャンピングカーで車中泊しに行った際、立寄ってきました群馬県太田市徳川町に鎮座する神社です寛永21年に世良田東照宮が勧請されたことから、徳川郷主の18代当主・正田義長が邸内に東照宮を創建したと言われているそうです。