芭蕉さんの別れの句の碑が奉られています。
芭蕉句碑川崎日進 麦の穂句 / / .
芭蕉が大阪で亡くなる年の5月に、東京を出立して、いざ別れという心情を読んだという。
麦の穂を便りにつかむ別れかないかにも足腰の不安を抱えた芭蕉は、旧知の友人や後輩に別れを惜しまれつつさよなら〜って別れたんだと思う名句だ。
2022.11.20この人は本当にいろんな場所に行っていて、旅先で良く出会う。
一度彼が巡った地を回ってみるのも楽しいかもしれない。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」江戸を離れる際にこの地で門弟を前に詠った句だそうだ。
5か月後に大坂で亡くなるので、もう会えないことを分かっていたのだろう。
芭蕉さんの句碑は東海道に多くのこされているという・・ここもそのひとつですね。
八丁畷駅を降りて、川崎向かいに旧東海道を行くと少し入ったところにあります。
句碑を覆う大き目の木造りお堂。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」、芭蕉が江戸から故郷へと旅立つ際に、お弟子さんたちは芭蕉と別れるのが惜しくて多摩川を越えて川崎宿までついてきてしまいました・・断腸の思いで京側出口あたりにあった茶屋にて別れを惜しみながら句を詠み合ったそうです。
弟子たちの詠んだ句に対して芭蕉が返したのがこの句。
芭蕉は別れたこの年の秋に大阪で帰らぬ人となってしまいました。
弟子たちにとってはこの場所が本当に最後の別れだったという・・・せつない・・
俳聖・松尾芭蕉が詠んだ「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の句碑です。
旧東海道には芭蕉の句碑が多く残されています。
ここ八丁綴えきちかくには「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句が残されています。
この句碑は、俳聖と言われている松尾芭蕉の足跡をしるしたもので、京浜急行八丁畷(はっちょうなわて)駅のすぐ近くに建立されています。
元禄7年(1694)5月、江戸に住んでいた芭蕉は、子の治郎兵衛と共に郷里の伊賀へ旅立ちました。
芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、袋水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわしました。
この時、芭蕉が詠んだ句が「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
芭蕉が亡くなってから130年後の文政13年(1830)8月、俳人一種が桜井梅室(天保の三大俳家)に揮毫(きごう)してもらい、麦の穂の句を八丁畷に建立しました。
芭蕉の句碑は、川崎市内にはこの句碑のほか4基(川崎区平間寺・稲毛神社、高津区宗隆寺、宮前区影向寺)あると言われていますが、芭蕉が句を詠んだ地に建てられた句碑は、箱根山で富士を詠んだ句碑など数基しかありませんので、その点でもこの句碑は大変貴重と言われています。
碑と背う名板があり、下のように書かれてました。
俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(1694)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある麦の穂をたよりにつかむ別れかなの句にたくしました。
芭蕉は「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風(しょうふう)」を確立し、同じ年の十一月、大阪で、旅に病んで夢は枯野をかけめぐるという辞世の句をのこし、五十一歳の生涯を閉じました。
それから百三十四年後の文政十三年(1830)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室(ばいしつ)に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
この道沿いは旧東海道で俳句を詠んだんでしょうか😃
史跡。
京急線路沿いに立地。
俳人松尾芭蕉が1694年(元禄7年)江戸深川をたち故郷伊賀に帰途中、川崎宿に立ち寄り門弟たちとの惜別を読んだ句。
川崎市日進町の旧東海道沿いに芭蕉句碑が建っている。
麦の穂をたよりにつかむ別れかな 元禄7年(1694)5月11日に詠まれた句で、江戸からの最後の旅となった。
前書に 人びと川さきまで送りて餞別の句を云。
其かへしとある。
句碑は昭和39年に近くで発見された。
名前 |
芭蕉句碑川崎日進 麦の穂句 |
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ジャンル |
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電話番号 |
044-200-3305 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
芭蕉さんの別れの句の碑が奉られています。
すぐ傍には京急が走っていますが風情がありますね♪