永平寺に似てるな、と思ったらちゃんと関係があったの...
菊の、御紋!
立派な門です。
気が引き締まります。
永平寺に似てるな、と思ったらちゃんと関係があったのですね。
八万坪の広大な曹洞宗の本山だけあって、巨大な寺院がたくさんあり、見応えがありました。
向唐門(勅使門) 1925年總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれましたので、「勅使門」の名を残しておりました。
禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の御移転記念日の時に開扉されております。
大正/1925木造、檜皮葺、間口6.2m、袖塀63m付1棟横浜市鶴見区鶴見2-1-1登録年月日:20050712宗教法人大本山總持寺登録有形文化財(建造物)仏殿の南,百間廊下の前面にある。
切妻造,檜皮葺の四脚門で,前後に唐破風を付ける。
木鼻や頭貫など彫りの深い細部を備え,両側面の花狭間や組物間彫物などを精緻につくる。
桁行約6mと大規模で,両側に築地塀が延び,仏殿前方の重厚な景観をかたちづくる。
後醍醐天皇が石川県にいた時に曹洞宗の本山は総持寺とする、次いで永平寺とする。
そう勅令があり大本山を名乗る事を許されました。
皇室の裏紋「五七の桐」が使われています。
向唐門には関東では非常に珍しい16枚菊の紋と5本の線の塀があります。
勅使ちょくしとは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。
勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達することから、勅使を迎える者が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされた。
主に鎌倉幕府成立以降、勅使は将軍宣下や勅令の伝達を主として担った。
江戸幕府では勅使下向に際し、外様大名のなかから勅使や院使の饗応役を任じてこれを接遇した。
江戸時代に将軍宣下が江戸城内で行われるようになると、勅使は下座に坐し、将軍が上座に坐すという変則が常態化した。
しかし、これも幕末になると尊王思想の浸透により公武の権威がふたたび逆転、勅使が上座、将軍が下座となった。
勅使を受け入れる施設や宿場、寺社には勅使専用の部屋や門を造られ、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがある。
現在では、正倉院の「開封の儀」や皇族男子の婚約相手の家で執り行われる一般の結納にあたる「納采の儀」の際に、モーニングコートにシルクハットで威儀を正した勅使が派遣される。
また伊勢神宮、勅祭社には衣冠束帯姿の勅使が天皇からの幣帛を携えて派遣される。
勅使には、侍従や掌典が遣わされるのが慣習である。
大本山總持寺1321年曹洞宗4世の瑩山紹瑾は「諸嶽観音堂」へ入院。
「諸嶽観音堂」の寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名、禅院とした。
1322年 後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称した。
1615年徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。
1898年火災で慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失。
1911年現在地へのに移転遷祖式。
石川県輪島市門前町の旧地は總持寺祖院となる。
1915年仏殿竣工。
本尊釈迦如来像を安置した。
1920年 香積台3月竣工1969年鉄筋コンクリート造の三門を建立した。
1990年三松閣 :(研修道場) 竣工。
名前 |
總持寺 向唐門 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-581-6021 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
近くまで行けませんが、遠目でも迫力は伝わって来ます。