名前 |
乙部町役場 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0139-62-2311 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
キャラクターれん・りー⇒富岡地区の国有林にある縁桂は、ただの2本の桂の大木ではない。
この桂は長い年月、お互い助け合い支え合いながら雨や風や雪に耐えて成長した。
そのうち腕が一本につながって、2本で一本の木、つまり夫婦の木になった。
左側がれん、右側がりー。
中国の古い物語でこのような姿を連理の木、連絡のれんの字と理科の理の字で呼んだのが、れん・りーの名前の由来。
2本の木はとっても仲良し。
これからもつながった腕でパートナーをがっちりと支え、助け合い、仲良く暮らすそうだえん君とかつらちゃん⇒乙部町にある縁結びの神様が宿るといわれている「縁桂」をモチーフにしたキャラクター📖乙部のヤチダモ1596(慶長初)年、上杉家の家臣宇田民部(修験者でもあった)が3人の従者を連れて南部地方から奥尻へ漂着。
その後、大成の太田に渡り、南下したところ、乙部の姫川河口から見ると、山の中腹になにやら光を発見。
近づいて見たところ、ヤチダモの古木のこぶから光が出ていたので、そこに一泊した。
すると、南に人家があると神のお告げを聞き、翌日南下してみると一軒のアイヌの家に着き、食物にありつけた。
宇田民部はヤチダモの傍に祠を建ててヤチダモに感謝し、従者3人と共にこの地に住みついた。
これが乙部の開祖である📖姫川伝説(1)源義経に会えなかった静御前が身を投じた。
そのために姫川と名づけられた。
また、この川の上流にある姫待峠は、義経が静御前を思いつつも越えなければならなかったことで命名された📖姫川伝説(2)昔、この川の上流からお姫様が現れた。
このお姫様は、川の上流からお供の者に連れられてやって来て、ボロボロの着物を着ていたが、立ち居振る舞いから身分の高い人と想像された。
同情した村人が、川に上った鮭を松前藩に献上し、いただいたお金がお姫様の衣装代や化粧代になった📖六条判官の弔いの地乙部で過ごす義経の胸に浮かぶのは、頼朝に捕らえられ、首を打たれた祖父の六条判官為義の悲運。
義経は祖父の霊を弔うために、小高い山に碑を建てた。
義経は、この山を祖父の名にちなんで"六条の森"と呼んでいましたが、今では"竹森"と言う📖マオー鳥昔、鮪ノ岬あたりに住んでいたアイヌの娘と和人の青年が恋仲になった。
しかしこれを知った娘の父親は激怒し青年を斬り殺してしまった。
残された娘は失意のうちに毎日浜辺に立って青年の名前を呼び続けついに亡くなったしまった。
その霊は青鳩になり「マオ、マオ」と人の名前を呼ぶようにして今でも鳴いている📖壁坂の吉松と蒸気亀昔、乙部の街の入り口には「壁坂」という場所があった。
切通しの道で粘土が露出しており、当時の民家はこれを使って土壁を塗り立てたので自然と壁坂と呼ぶようになった。
ここに吉松(きちまつ)という男が住んでいて、「壁坂の吉松」と呼ばれていた。
また、今の緑町付近を昔は下町といって、ここには亀蔵という男が住んでいた。
その二人があるとき床屋で一緒になったとき、いろいろと話すうちに最近街の金持ちが買った発動機船の話題になった。
吉松が「その発動機船と磯船とどっちが早いだろうか?」と聞いてみたところ、亀蔵は「長い間を漕ぐなら負けるが、ちょっとの間なら発動機なんてクソでもくらえだ」と自信満々に答えた。
当時の船といえば磯船が主流で櫓漕ぎである。
対して発動機はスクリューだ。
吉松は「発動機の船の進む勢いときたら速いことこの上ない。
櫓の船なんて相手にならんよ」と返した。
お互い漁村育ちの熱くなりやすい気質のせいか次第に話は言い合いになり、ついには実際競走してみようじゃないかとなって、お互い一升酒を賭けて乙部の浜へ向かった。
二人は遠くに見える澪標まで先にたどり着いたほうが勝ちと定め、「よーいドン!」の掛け声で浪打ち際に駆け入った。
吉松は発動機の紐を引いたがなかなか回らない。
二、三度引いてやっとエンジンがかかったかと思うと今度はスクリューが回るまでややしばらくかかる。
なんとこの発動機、発動機は発動機でも蒸気式だった。
そうこうしているうちに、亀蔵の磯船はえっちらおっちらと沖の方へ行ってしまい、結局そのまま先に着いてしまった。
この様子が伝わると以来村の衆は、蒸気発動機に櫓船で勝ったもので亀蔵を「蒸気亀」と呼び、「壁坂の吉松、蒸気亀に負けた」と話した📖ダッタン漂流記19世紀になろうとする頃、3人の漁師がある日、船でこんぶ漁に出かけた。
3人は嵐に遭い、ダッタン国(現・中国吉林省)に漂着してしまった。
彼らはその国の役人の指示に従って国内を移動し、当時の宮殿「紫禁城」(しきんじょう)でやっと日本に帰国する許可をもらった。
当時は鎖国していた日本のこと、船で長崎についた3人は長崎奉行で厳しい取調べを受けた。
大変な思いをした3人は、北前船に乗って約2年半後に乙部に帰ることができた。