カキ祭り 行ってまいりました。
1〜2年ほど前に、知内町役場の一階に出来た「北島三郎ギャラリー」(^。^)入場無料で豪華なゴールドu0026ブロンズ像と記念写真も撮れるスペースに、歴代のCDジャケット表など…ファンの方もちょっと気になる人も一度は訪れてみてくださいo(^-^)oただ、あまり知らない人も多いので、もう少し観光スポットとして宣伝しても良いのになぁと思いますσ(^_^;)
牡蠣祭り❣️なまらうんまい。
カキ祭り 行ってまいりました。
15×3袋 食べました。
食い過ぎて 割れちゃいました。
早く行かないと 凄く並ぶので 注意。
南銀。
キャラクターにららちゃん⇒特産のニラ「北の華」の花の髪飾りをしたカワイイ女の子かき太郎⇒「知内カキ」をモチーフにし、手に持っているのは、カキむき用のナイフ北華萌乳⇒知内町にある姥杉の神様にお仕えする精霊。
趣味は、散歩&温泉。
特技は、野菜の収穫知内公園 丘の頂上 荒神社(あらがみしゃ)📖太刀がけの栗 明治初頭の山火事で焼失松前藩藩主5代慶広の四男数馬之助由広(かずまのすけよしひろ・数馬介とも)は、剛の者だが蹴鞠や歌謡も得意だった。
ちょうど関が原の戦いから10余年たった7代公広(きんひろ)の時代、慶広はすでに隠居していたが公広が幼かったので実権を握っていた。
かつて豊臣秀吉に謁見して蝦夷地支配を認めてもらった慶広だが、今後は豊臣家との長いよしみを捨て去り、徳川家につくことがお家安泰につながるとして、藩主公広をはじめ息子や孫たちに相談した。
公広をはじめとしてほとんどが慶広の意見に賛成したが、ただ一人数馬之助だけが太閤秀吉に忠節を尽くし、秀頼を支えることが武士道だ、と慶広に反対した。
1612(慶長17)年、数馬之助は母の追善に高野山に詣でた帰りに大坂に寄った。
その2年後の大坂冬の陣の際、彼は大坂方に加担しようとしたので、徳川家についていた慶広は家臣に命じて、息子である数馬之助を討とうとし追ってきたので、ついに数馬之助は自害してしまった。
(数馬之助がつまらぬことである武将を斬ってしまったことに激怒した慶広が、討手をさしむけて数馬之助が力尽き、自刃したとの説もある)。
慶広は北の丸に堂を建てて息子の冥福を祈ったが、ある朝南向きだった堂がいつの間にか東向きになっていた。
何度直しても東向きになってしまう。
慶広は恐れおののき、城下の予言者の尼に占ってもらったところ、数馬之助の霊が知内の山を彷徨っていて、一振りの太刀が置いてあるという(数馬之助の霊が巫女に「成我神其名云雷天荒神」と言わせた)。
調べると、尼の言うとおり毛無山山麓の栗の木に、数馬之助の太刀を見つけた。
栗の木は、「太刀がけの栗」と言われて御神木として崇められた。
西北の風が強く、他の木は風になぶられてその方へ伸びていくのに、この木の枝はなぜか松前の方向を向いて伸びていった。
人々は数馬之助の霊が、まだ鎮まらずに松前を睨んでいると噂した。
その地に3代藩主公広が荒神社を建立し、供養のため数馬之助の脇差しをご神体として、羽織箱に入れて埋めた。
その翌年(1616)、慶広が急死した。
城内でも数馬之助の祟りが噂された。
さらに、数馬之助の弟安広が、兄の霊を弔うために仙台から12本の黒松を送り、荒神社そばに植えた。
この松の枝もやはり松前へ向かって伸び始めた元町 知内公園 姥杉(乳母杉)雷公神社の祖、了徳院重一が亡くなった数年後の1262(弘長2)年、妻の玉之江は病床に伏していた。
玉之江は家族を呼び、「私が亡くなったら知内の一番見晴らしのいいところに埋めてください。
乳不足の母親にお乳を授けてあげたいのです」と遺言し亡くなった。
家族は元町の小高い丘に玉之江を葬り、そこに一本の杉の木を植えた。
その木にはいつの頃からか女性の乳房に似た二つの瘤が見られるようになり、そばにお堂を建て、姥杉社と名づけた。
そのお堂にお乳の出ない母親がお米を入れた大小の布を供え祈願したところ、しだいにお乳が出るようになったため、「乳母杉」「乳神さま」といわれるようになった。
名前 |
知内町役場 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
01392-5-6161 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
本当はここ入るつもりなかったんですが、雨降ってきて雨宿りに活用させてもらいました。
ここ、なんといってもすごいのは北島三郎ギャラリーでしょう。
若かりしころの北島三郎氏の写真とか映像があります。
これもうちょっと宣伝してもいいのではないかなくらいなかなか面白かったです。
イレギュラー的な感じの利用でしたが、意外と発見ができた。