新選組ゆかりのお堂だそうです。
西本願寺の太鼓楼。
昔、太鼓を鳴らして時報や緊急連絡などの役目を果たしているようでした。
「新撰組の」の前身の「壬生浪士組」を結成。
「不逞浪士」の取り締まりと市内の警備を任される。
内部公開してないですが、逆に見たくなりますね。
新選組二度目の移転で使用されたという太鼓楼。
旧前川邸に倣いここでも大筒などの調練を派手にかまして信徒を震撼させたようです(笑)
『太鼓楼』は西本願寺の東北の角にあり、堀川通から(外から)見学します。
高さ約15mで、内部には昭和30年代まで、時を知らせるために使われた2つの大きな太鼓が残されています。
幕末には太鼓楼と太鼓楼の西側にあった北集会所を、新選組が屯所として使用していました。
その後北集会所は姫路市の本徳寺に一部移設されたため、現在の西本願寺に残された新選組の足跡は太鼓楼のみだそうです。
太鼓楼と唐門を見に来たら、唐門修復中。
新選組がいたにしては あまり人集りもなく、西本願寺側も新選組がドラマでブームになってた時もあまり公表にしなかった。
行儀の悪い新選組は厄介者だったので語りたくもないってとこでしょうか。
壬生屯所から西本願寺に拠点移した新選組。
振る舞いは好き放題で、ここでもかなりの厄介者だったらしい。
「大政奉還150年幕末維新を歩こう」新選組は、幕府に京都守護職を命じられた会津藩主松平容保の配下で活動した組織1867年(慶応3年)には幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。
新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったが、1864年(元治元年)の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたという。
1865年(慶応元年)、壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していた。
幕末の尊皇攘夷の中で、長州藩と本願寺とは深いつながりがあり、1864年(元治元年)の「禁門の変」では、長州藩士が本願寺に逃げ込んでいる。
そんな本願寺に新選組が屯所を構えたことは、一石二鳥の効果を狙ったものだったという。
新選組ゆかりのお堂だそうです。
拝観できませんが、外からだけでも十分面白いです。
新選組の隊 士が増えて、長州藩よりだった西本願寺さんへ、いやがらせと監視のために強引に屯所にされてしまったのです。
この建物は当時とほぼ変わらないそうで、新選組の足跡をたどるには、立ち寄りたい場所です。
が、中は非公開です。
2017.11.30.(木) 12:40 3回目の参拝車でフラフラ (奈良斑鳩人)西本願寺サンには すでに3回来ていますが太鼓楼は 存在すら知らず 今回が初めてです時を告げる為の太鼓楼は 御影堂の再建と同じ 江戸時代の初めに 存在していた事が「洛中洛外図屏風」に描かれ 分かっていましたが 場所が違い ハッキリした事は分かりませんしかし コノ太鼓楼は 江戸後期の1789年に再建されたモノで 新撰組が拘わった建物で有り 重要文化財の指定を受けた 歴史的にも興味深い建物でした太鼓楼に有った説明板には 1865年の 維新3年前には 新撰組の壬生に有った屯所が手狭に成り ココ本願寺の境内に『新撰組本陣』の看板を掲げ 北集会所と コノ太鼓楼を 使用していたと有りました更には 境内において 実弾射撃を行ったり 大砲を轟かしたり ソノ様なコトも有ったと記されて有りましたココには あの新撰組の 幕末維新における歴史が 事実として存在し 形として残ったモノが コノ建物の太鼓楼だと 言うコトを知った次第でした❗
新撰組の本陣が置かれた場所らしいですが中を見学できなかったのが残念。
新撰組屯所跡。
西本願寺の北東にある建て物で、新撰組の話が出て来るのが、此処ですね、堀川通り沿いにありますのでご覧頂けますよ。
新撰組の本陣として使われた跡地に唯一残る建物です。
名前 |
太鼓楼 |
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ジャンル |
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住所 |
〒600-8358 京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町 |
評価 |
4.0 |
重要文化財。
今まで駅側からお参りして太鼓楼側まで周らずに帰っていましたが、今回縁があって北側からお西さんにお参りすることになり立派な太鼓楼を見ることができました。