この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ、拭い、目利きのいわゆる三事を以て世に重きをなした、本阿弥家代々の屋敷跡として「本阿弥辻子」の名を今に遺している。
その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、永禄元年(1558年)実この處に呱々(ここ:赤ん坊の泣く声)の声をあげたのである。
光悦はその家業の三事において、達人の名をほしいままにしたが、彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、気韻あふるるふう富麗清逸の美的境地を開き、天下の数寄者の敬仰を集めた。
光悦は元和元年58歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、寛永14年(1637年)、その80歳の生涯を終ふるまでの晩年を、鷹峰に風流の生を送ったが、彼の壮んなりし58年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、家業にいそしむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過ごしたのであった。
上京文化振興会本阿弥光悦は、特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。
生家の本阿弥家は京の上層町衆。
足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。
1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。
そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。
徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。
王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。
また、師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。
光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。
以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。
俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。
茶の湯は古田織部に学んでいる。
なお、尾形光琳・乾山兄弟の曾祖父・道柏の妻(法秀)は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。
また光悦の白楽茶碗「不二山」(国宝)にも関わったと考えられる楽焼の樂家の養子となった宗入(5代目当主)の曽祖母も法秀であり、光琳・乾山とは従弟同士となる。
孫の本阿弥光甫も陶芸家・茶人として著名であった。
尾形光琳が上御霊神社の西側の屋敷があり、楽さんは、油小路通一条下がるにあり、光悦の姪孫(てっそん)の灰屋紹益は寺之内通猪熊でみんなけっこう近いですよ。
生まれてから58年ここに住んでたんですね。
その後の22年は鷹峰か!年寄りにあの坂はキツイ。
でも足腰達者で長生きできたんなら家康に感謝せなあかんね。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。
書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
名前 |
本阿弥光悦京屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka077.html |
評価 |
3.2 |
上京区油小路通五辻下る東側に「本阿弥光悦京屋敷跡」の石碑と説明書きの駒札があります。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、1558年 - 1637)は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。
書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
元和元(1615)年大坂夏の陣後,徳川家康(1542~1616)から拝領した鷹ヶ峰の地に一族・工匠らとともに移り住むが,それまでは本阿弥家本家の邸宅が構えられていたこの地に住していた。
この石標はその邸宅跡を示すもの。