「悲田院の遺址」という駒札があります。
駒札:悲田院の遺址悲田院は平安奠都の際、東西二箇処に設けられた施設出あって、京中の捨児、孤児、貧窮者、老残者等を収容した。
東の悲田院はこの地すなわち京極大路(寺町通)の東姉小路の北に所在した(南北120m、東西150m)。
院には常時、五百人ほどが収otoroeyanodえ「容されていたが、寛仁元年(1017)七月に鴨川が氾濫した折には、三百余人の収容者が水に押し流された。
政府や有力な貴族たちは、悲田院の維持経営に励んだ。
しかし鎌倉時代の末葉にはひどく衰退していたので、水仁元年(1293)頃 僧如導は、これを佛寺となし、上京区の扇町に移徒した。
しかしそれもまた衰えたので、正保二年(1645)、それは、泉涌寺の境内に移され現在に至っている。
平安京の悲田院は施薬院(公衆病院)と共に日本人が世界に向かって誇るに足る福祉施設であった。
平成元年五月 財団法人 古代学協会Piece card:Ruins of Hida-in TempleDuring the Heian period, Hiten-in was a facility that was set up in two places, east and west, and housed abandoned children, orphans, the poor, and the elderly in Kyoto. The Hiden-in Temple in the east was located north of Higashi-Aneyakoji on Kyogoku-oji (Teramachi-dori) (120m north-south, 150m east-west). The hospital usually accommodated about 500 inmates, but when the Kamo River flooded in July 1017, more than 300 inmates were swept away by the water. .The government and influential nobles worked hard to maintain and manage the Hidenin. By the end of the Kamakura period, however, the temple was in serious decline, so around 1293, the monk Nyodo made it a Buddhist temple and moved to Ogimachi in Kamigyo Ward. However, it also declined, so in 1645 it was moved to the precincts of Sennyu-ji Temple, where it remains today. Hida-in Temple in Heian-kyo was a welfare facility that the Japanese people could be proud of to the world, along with Seyaku-in (a public hospital).May 1989, Foundation for Ancient Studies
河原町御池の交差点南西角のビル壁に、「悲田院の遺址」という駒札があります。
河原町通正面に駒札が向いておらずビルの通用口付近の側面にあるので注意しない見過ごしてしまいます。
悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設になり平安京に二か所あったとのことです。
現在は京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院があり、これは平安京の悲田院の後身と伝えられる。
名前 |
悲田院の遺址 駒札 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.0 |
平安京は最初は政治の理想で始まり宗教へと受け継がれて行ったのか?さり気なく有る案内板にも平安時代の歴史あり。
しかし、西寺、羅城門、鴻臚館など再建されない物が多くなり、理想は藤原さん達の気の向くままで「文徳天皇」の頃迄が一つの区切りの時勢なのかな。