たまたま娘と公園に行って発見。
三木一草の中で最後に散った名和伯耆守長年(ホウ『キ』ノカミ:最早名前関係無し)の戦没地の様です。
楠木・千種・名和には戦没地があるのに、残る結城が…無いね。
陽梅東洞院から樋口東洞院の辺りらしいのですが…。
大きな石碑が二つもあります。
その理由は名和長年が南朝方だったからでしょう。
それにしても、北朝の子孫である明治天皇はなぜ南朝を正統としたのでしょうか?
トイレあります。
名和長年は伯耆国の豪族で、海運により富を積んだ。
後醍醐天皇の隠岐島脱出・京都還幸を助け、建武の中興で伯耆・因幡を受領。
後に武家政権の再興に傾いた足利尊氏との戦いで戦死。
長年の侠気ともいえる行動は、同じような「悪党」と呼ばれた勢力にとって、胸のすくような出来事だったのかもしれない。
時代の新興勢力がより古い権威と結ぶのは、両者にシンパシーがあるのだろうか。
石碑は二本あり、「贈正三位」とある方は明治19年、「贈従一位」とある方は昭和14年とある。
明治維新後、皇国史観の跋扈とともに贈位されていくのが分かり、すこしばかり暗澹とする。
もちろんそれは長年本人には何の責任もない。
後世、本人の預かり知らぬところで、偏狭なイデオロギーで人生を彩られるというのは、不幸だ。
後醍醐も、明治から終戦までの時代も、『宋学』の時代だった。
忘れられたように鳥居と玉垣が残るが、いまでは小さな児童公園になっている。
安らかな景色と言えるのかもしれない。
たまたま娘と公園に行って発見。
歴史上の名人。
道に迷いたまたま歩いていたらこんなところに遺跡がありました。
後醍醐天皇 の忠臣名和長年 が戦死した地。
こんな所に鎌倉時代の遺跡が!ジョギング中に発見。
名前 |
名和長年公殉節所 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.2 |
名和長利は後醍醐天皇の京都還幸を助けました。
明治時代からは天皇を助けたという事で英雄として教科書に紹介されましたよ❗