同級生のお母様が巫女をなさってらしたけど亡くなられ...
公園の一部だと思いきやかなり整備された山城跡でした。
主郭からの眺望も良く、土塁や横堀、主郭の礎石と必見です。
ここはおススメである。
河内長野駅徒歩15分で、ド素人でも、「山城じゃん」とわかる雰囲気を味わえる遺構がお気軽に体験できる。
多分近世城郭として短期間再整備されて運用された影響で、中世山城の堀切・土塁・曲輪・土橋のセットが丸々残っている。
ほとんどの人は南の駐車場側から上がると思うけど、北側から本丸目指した方が遺構が色々わかりやすい。
駐車場も無料で10台ほどあります。
道案内の看板もきれいに整備されていて、曲輪へのルートも分かりやすかった。
横堀、土塁も山城跡の中では良く残っているかと思います。
ルイス・フロイスも来訪していたらしいとあり「おぉ」となりました。
ただ、秋口に登城の際は、スズメバチに気をつけてください。
うっかり刺激しないように。
◽アクセス①南海高野線・近鉄長野線「河内長野駅」「徒歩10~12分」②駐車場︰烏帽子形公園(若干台数可)◽「烏帽子形城跡」▪南河内の城址の中でも屈指の遺構クオ. リティを有する史跡です。
▪さながら、復元された山城の如くに. 「堀切・横堀・切岸・土塁・土橋・曲輪. ・堀内障壁・礎石建物跡など」の遺構の. 形状劣化が殆どがない素晴らしい残存. 率でした。
▪️現在確認できる山城の縄張りや遺構群. は秀吉配下の武将中村一氏により改修. を施されたものとのことです。
▪甲斐庄氏は、大坂の陣での功により. 河内錦織郡2000石と烏帽子形城の褒賞. を賜りますが、一介の旗本に城の維持. 能わず廃城となります。
▪旗本甲斐庄家はその後250年にわたり. 勘定奉行など幕府要職を代々務めます。
◽「烏帽子形古墳」▪同丘陵の古墳広場には(烏帽子形古墳). が遺されています。
▪築造年代︰6世紀後半〜7世紀頃)▪形状︰円墳▪規模︰直径17m▪埋葬施設︰横穴式石室◽「烏帽子形城」 データ▪城郭分類︰山城▪築城主 ︰楠木正成▪築城年 ︰1332(元弘2)年/正慶元年▪主城主 ︰楠木氏、甲斐庄氏(橘氏)▪廃城年 ︰1617(元和3)年▪遺構 ︰曲輪、空堀、土塁、井戸▪別名 ︰押子形城▪史跡指定︰国史跡、市文化財◽河内長野市の古墳▪塚穴古墳▪烏帽子形古墳▪三日市10号墳▪大日寺古墳▪大師山古墳 (古墳跡を示す石碑のみ)
この烏帽子形城も楠木正成の時代から多くの城主が変わってきたけど、中世の時代フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教でこの城の城主がキリシタン大名の時代もあった。
だが豊臣秀吉の禁教政策により去ってゆくもキリシタンの一部は里山奥深くの流谷などに隠れキリシタンとして信仰は続いていたのだろうか?キリシタンの戒名が刻まれた石碑や地蔵が見つかる。
連続・連携する土塁・横堀群。
国の指定史跡である。
城郭の規模は、東西約180m、南北150mと比較的小規模な部類に入る。
ただし、多彩な構造物が施されており、瓢箪型の主郭とそれを取り囲む逆L字型の腰曲輪を中心に土塁と横堀が作られ、尾根には堀切、主郭の北側には切岸が設けられている。
当域周辺の諸城では、堀切が用いられるのが多いのに対して、当城は土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっている。
標高182mの烏帽子形山の山頂部に位置し、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいる。
よって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしている。
付近には、京と堺と高野山を結ぶ東高野街道と西高野街道が高野街道に合流する地点があるほか、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝であった。
堀や土塁が楽しめます。
よく整備されています。
明瞭に遺構が残っている。
楠正成が築いた城の一つと言われている。
その後室町時代、畠山氏の内訌では度々城主が代わったが、安土桃山時代には楠正儀末裔、甲斐庄正治が城主となりその子正房まで続いた。
甲斐庄正治が切支丹大名であったことから、河内の切支丹信徒の一大拠点となり、京を追われ堺で布教活動を行っていたルイス・フロイスも度々訪れた。
現在、主郭を始めとして各曲輪、土塁、空堀等が残り、中世の山城としての姿をよくとどめている。
名前 |
烏帽子形城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
同級生のお母様が巫女をなさってらしたけど亡くなられて今は弟さんが神主をなさっていると聞きます。