滝廉太郎の生い立ちを書いて、います?
東京都出身の滝廉太郎が大分でなくなったのは官職を退職されたお父さん、ご家族で大分のほうにうつっていたらしいからです。
それにしてもなくなったのが23歳なんですね。
しかも作品の大多数をお母様が滝蓮太郎死後に焼いてしまったそうです。
もったいない話です。
大分駅から府内城に行く際に立ち寄るのも良いでしょう。
生涯1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。
瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄である[1]。
父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることにとなった。
1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学。
同年9月、富山県尋常師範学校附属小学校(現在の富山大学人間発達科学部附属小学校)に転校。
1888年(明治21年)5月、麹町尋常小学校(現在の千代田区立麹町小学校)に転校し、同校を1890年(明治23年)に卒業。
卒業時にはピアノを演奏したと伝えられるが、その曲目は不明。
同年に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。
1898年(明治31年)に本科を卒業し、研究科に進む。
こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。
1900年10月7日には東京市麹町区(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、(親族は、クリスチャンに成る事を反対したとも)10月28日にジョン・マキムから堅信礼を受けた。
明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。
彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。
また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。
「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「鳩」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められた。
また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。
またピアニストとしては特にラファエル・フォン・ケーベルに私淑し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた。
1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着。
同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。
さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学する。
文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。
1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着く。
その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。
23歳没(満24歳)。
結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。
作曲数が多かったと考える者もいるようだが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはない(編曲作品も幾らか現存)。
瀧家の墓所は日出町の龍泉寺であるが、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。
戒名は直心正廉居士。
2011年(平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された。
龍泉寺には、瀧がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。
俳優の竹内力の祖先と親戚だそうだが、現代の交流は、ない。
There are so many historical statues here
名前 |
瀧廉太郎終焉之地 |
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評価 |
3.8 |
滝廉太郎の生い立ちを書いて、います🤗