旧幕府軍が箱館から江差へ向けて進軍しました。
稲倉石古戦場跡 碧血碑 / / .
①箱館戦争の舞台の一つ。
②確か実際の戦場は湖の底だったような。
③説明文より→箱館戦争当時この付近を稲倉石とよび北と南から断崖絶壁が迫り、その渓谷に山道と鶉川の急流がありました。
未完成で無防備といってよい松前藩館城にとってはこの場所は重要な砦でした。
そのため松前藩は今井興之丞を隊長に100名余りの兵と4門の砲座を構え、自然の要塞に加え20メートル余りに丸太の柵を築き、網で宙吊りにした丸太を落下して攻撃をくいとめる仕掛けも作り守備を固めていました。
1868(明治元年)11月12日(新暦12月26日)の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四郎次郎隊200名余りの兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため、不意を突かれた松前軍(今井隊長不在であった)は立木、柵木を盾に4時間余りにわたって奮戦するも弾薬も無くなり、陣屋に火を放って退却したのです。
この敗戦が、館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。
福山城陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており、1919年(大正8年)8月松前出身の蠣崎知次郎ほか有志がこの古戦場に碧血碑を建立して戦没者藩士らの英霊を弔いました。
現在の建立地はダム建設により1976年(昭和51年)国道227号沿いの鶉ダム展望広場に移設されました。
稲倉石は100人余の兵から成る松前軍が、1868(明治元)年11月12日に旧幕府軍と交戦し、熾烈を極めた激戦地。
碑は1919(大正8)年8月、元松前藩士の有志によってこの戦いの慰霊碑として建立された。
その後、当初の建立地がダム建設により湖底に沈むことになったため、碑は現在の国道227号沿いの鶉ダム展望広場に移設された。
明治元年に起こった箱館戦争の時、旧幕府軍が箱館から江差へ向けて進軍しました。
この地から江差方面にあった松前藩の館城には松前藩の藩主がおり、この地を通過されると館城まで攻め込まれてしまいます。
松前藩はここの守備を固めましたが、旧幕府軍に攻め込まれて退きました。
後、館城も攻め落とされ、旧幕府軍は江差へ向かいます。
この碑は、戦死した松前藩士の霊を弔うために大正8年に建てられ、鶉ダム建設によって水没してしまうことを避けて、この地に移されました。
名前 |
稲倉石古戦場跡 碧血碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
http://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/tabi/08assabu/parts/3806ink.htm |
評価 |
3.6 |
子熊がいるので注意です。