名前 |
【柏崎のいしぶみ】関矢儀八郎・松村文次郎・沢田折柄 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
西光寺山門手前に「関矢儀八郎」「松村文次郎」碑、山門潜って右手に「沢田折枝」の碑があります。
【碑銘】関矢君之碑【建立年】昭和3年(1928)1月【碑額題】農林大臣従三位勲三等 山本悌二郎【主文撰】田代亮介【主文書】飯塚彦次郎【碑文刻】小林群鳳関矢儀八郎生年月日(和暦) 安政5年 没年月日(西暦) 1924 没年月日(和暦) 大正13年明治13年21歳のとき、儒学者青柳剛斎の漢学舎塾頭となる。
当時の自由民権運動に刺激され、柏崎自由党の松村文次郎を助ける。
新潟の北越学館教師をへて東北日報の記者となる。
明治22年、沿海州サケマス漁業と対岸貿易の必要性を説き、国策による北陸3県(新潟・富山・石川)が一体となって当たるべきだと主張し、新潟にある単独会社を批判。
新潟県知事に無視されるが、自力で魁丸を調達して、3県事業の名目で出漁し、貿易を成功させる。
さらに日露定期航路の必要性を主張。
再三国会に陳情し、実を結ぶ。
明治36年衆議院議員に当選。
大正12年、日ソ漁業条例締結とともにロシア領水産組合を創設し、開拓地を斡旋する拓殖協会県支部長となる。
海を愛し、清貧に甘んじ た政治家であった。
【碑銘】松村翁之碑【碑額題】貴族院議員従四位勲三等 杉田定一【主文撰】元衆議院議員 関矢儀八郎【主文書】勲三等丸山嵯峨一郎【碑文刻】田辺兵蔵※松村文次郎生年月日(西暦) 1839 生年月日(和暦) 天保10年 没年月日(西暦) 1913 没年月日(和暦) 大正2年江戸後期からの富豪の家に生まれ原修斎に学ぶ。
戊辰戦争後柏崎県へ出仕し、柏崎学区取締役となる。
自由民権運動に関心が高く、明治12年初の県議会で議長となる。
県予算の大半を土木費が占めることから国費補助のあり方を論ずる。
国会開設をにらみ、明治13年政治結社春風会を結成。
刈羽郡内では自由党の松村文次郎と改進党の山口権三郎が激しく対立した。
明治23年、初の衆議院議員選挙に自由党系から立候補して当選。
その直前米価高騰を機に暴動が発生し、改進党系の豪商や事務所が壊される。
暴民に対し、「松村に任せよ」と叫び治まる。
家財を失い明治31年上京。
生涯清廉な政治家であった。
【碑銘】折枝沢田翁碑【建立年】明治25年(1892)5月【碑額題】松村文次郎【主文撰】門人 市川与一郎【主文書】天釣散士猷【碑文刻】小林群鳳※ 慶応2年に開いた寺子屋は、旧本町三丁目の北側西端(小町への上り口)にあった。
勝田忘庵らが学ぶ。
明治24年5月に死去、享年79歳。