これより野越にかゝりて、直道(スグミチ)をゆかむ...
奥の細道・芭蕉一宿の地・玉生跡 / / .
奥の細道 第7の段「那須野」の宿泊の地。
石碑のみ残る。
本文では「農夫の家に一夜をかりて」とあるが、曾良旅日記によると「宿悪故、無理に名主の家入りて宿かる」とある。
前世紀は名主玉生家の末裔である尾形病院があったが、今は南に移転していて、「夢の跡」状態である。
名主はどういう故あって2人を泊めたのか記載はないが、名主の恩情と理解したいところである。
奥の細道では演出上、日付を前後させているが、曾良旅日記でも、この日の記述は怪しい、同日日光の裏見の滝に午の刻(12:00)までいて、約30km離れた玉生に未の刻(14:00)からの雷雨のなか、ようやく玉生に着くとあるが、この日は鬼怒川を渡し船で渡る行程も有り、この時間で到着するのは考えにくい。
滝見物のあと五左衛門の宿に宿泊して、翌朝玉生に向かったとみるのが正しいように思われる。
(日程調整は黒羽滞在時に相殺か?)蓑笠庵梨一(さりゆうあんりいち)の「奥細道管菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)」では、この段で詠まれた「かさね」の解釈に「鬼怒川もまたこのあたりに近し」とあり、この解釈によれば「農夫に馬を借りる話も前後(鬼怒川から玉生の間で起こった)しているかもしれない。
ただし、馬を借りたからといって、鞍の無い馬に乗って移動することはないと思います。
(興味のある方は、次の黒磯市の石碑口コミをお読み下さい)
名前 |
奥の細道・芭蕉一宿の地・玉生跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
7.那須野【芭蕉自筆影印】①おくの細道紀行文那春の黒者年登云處尓知人あれ者 こ禮よ利野越尓可ゝ里て 直道(スグミチ)越ゆ可無登す 遥尓一村を見可けて行尓 雨降り日暮るゝ 農夫乃家尓 一夜を可りて 明連者又野中を行 そこに野飼の馬あ利(那すの黒ばねと云処に知人あれば、これより野越にかゝりて、直道(スグミチ)をゆかむとす。
遥に一村を見かけて行に、雨降り日暮るゝ。
農夫の家に、一夜をかりて、明れば又野中を行。
そこに野飼の馬あり。
)草刈おのこにな介きよれ者 野夫登いへ共(?) さ春可に情志らぬ尓盤あらす い可ゝ春へきや され共(?) 此野ハ東西縦横尓王可れて う為ゝゝ敷(慣れない)旅人の道ふ三堂可へ無 あやしう侍禮ハ この馬能とゝまる處尓て馬越返し給(?)へ登 ちいさきもの婦多り 馬能跡し多ひて者しる(草刈おのこになげきよれば、野夫といへ共(?)、さすがに情しらぬにはあらず。
いかゞすべきや、され共(?)、此野は東西縦横にわかれて、ういゝゝ敷(慣れない)旅人の道ふみたがへむ、あやしう侍れば、この馬のとゞまる処にて馬を返し給(?)へと、ちいさきものふたり、馬の跡したひてはしる。
)ひとりハ小娘爾て 名を可さ年と云 聞な禮ぬ名の やさし可り希禮者かさねとは八重撫子の名成へし 曽良頓(ヤガ)て人里爾至連者 あ多ひを鞍つ本耳結付て 馬越返しぬ(ひとりは小娘にて、名をかさねと云。
聞なれぬ名の、やさしかりければ、かさねとは八重撫子の名成べし 曽良頓(ヤガ)て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。
)【芭蕉尋ね地】①~日光街道・霧降大橋付近~日光街道から霧降の滝方面即②~日光街道・筋違橋(志渡渕川)~日光駅手前約700m日光線ガード手前③~日光北街道・瀬尾~川室~④~日光北街道・大渡橋~船生~⑤~日光北街道・玉生~芭蕉一宿の地塩谷郡塩谷町玉生632バスターミナル奥数十メートル《拡大写真はgoogle検索「芭蕉句碑の解読」》