築いたという都『磯城瑞垣宮(しきのみずがきのみや)...
延喜式神名帳の河内國志紀郡の項に志貴縣主神社と記載のある式内大社。
当社の御祭神は神八井耳命のほか、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比咩大神、住吉三神、神功皇后を合祀している。
当地は大和朝廷の直轄地として「志貴の県」といわれ、ここを管理していたのは、神八井耳命の後裔にあたる志貴県主と同族の志貴首であったので、祖神を祀る神社として創建されたものといわれている。
平安時代、国司は国府の近くに総社を設けることが多かったが、当社は河内國の総社であった。
地名に惣社とつくのはその名残。
境内には河内国府跡の石柱が立っている。
ここは国指定史跡の国府(こう)遺跡といわれ、2万年前の旧石器時代からの複層遺跡で、弥生時代の層からは人骨が80体分出土している。
ここから北に100mほど行ったところに式内社の黒田神社があり、そこは神八井耳命のかくし廟ともいわれている。
神社の前に立って振り返ると、すぐ南に伊勢街道が通り大和川が流れています(見えませんが)。
外鎌山や朝倉、忍坂などの聖地もすぐです。
背後には三輪山が温かく見守ってくれていて、今でも何やらありがた~い気分になる土地です。
崇神天皇の宮の場所は他にも説があるようです。
しかし崇神天皇自身が大物主の神を祭る場所を三輪山に定めたのだからここに宮殿があったことは不自然なことではないでしょう。
それにしてももう少し整備されてもいいような気がしますが。
天理教の立派な施設が眼前にあるので少し寂しい気がします。
かつて崇神天皇の皇居があった所だそうです。
山辺道(やまのべのみち)を散策するついでに参拝すると良い事があるかも知れません。
地元の崇敬者の方から、この神社の鳥居から龍が空へ飛び立つ所を見た方がいる、というお話を聞かせていただきました。
不思議な場所です。
十代ミマキ(崇神天皇)の世の、3年(アスス623年)のナツキ(9月)にシギのミツカキ(桜井市金屋)にニイミヤコ(新皇居)を開かれました。
ホツマツタヱ33アヤ『カミ(祖先)アガメ ヱヤミ(流行性疾病)タス(直す)アヤ』に典拠あり。
(C) 池田 満日本ヲシテ研究所 「ヲシテ文献 大意」 解説文より。
志貴御県神社しきのみあかたにますじんじゃ奈良県桜井市金屋896祭神大己貴神式内社(大)御県神社は皇室への蔬菜を中心とした食料供給及び警備拠点としての意味がありました大和国には高市、葛木、十市、志山辺、曽布の六社でそのひとつ崇神天皇の磯城瑞籬宮の伝承地。
第10代・崇神(すじん)天皇が、築いたという都『磯城瑞垣宮(しきのみずがきのみや)』の跡地です。
どうやら今回の旅は、崇神天皇にふかく関わる旅だったようです。
志貴御県坐神社(しきの-みあがたに-ます)磐境 磐座 大神神社内 南北に並ぶ四つの石がある。
また境内には、三輪王朝の開祖である第10代崇神天皇ゆかりの「磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)址」の石柱が立っている。
しかし考古学的には、宮はやはり纏向遺跡の中にあったと見るのが自然であろう。
御県神(みあがたのかみ)は田の神で、大和では高市御県・葛城御県・十市御県・志貴御県・山辺御県・曾布御県の六つの御県神が著名である。
御県神は大きな川の流域の田圃の中などにも祭られていることが多い。
志貴御県坐神社は「しきのみあがたにいます」と読むそうです。
初見ではとても無理ですね… 有り難く、御朱印を頂きました。
ここは無人社ですので三輪坐恵比須神社でいただけます。
古代の「磯城瑞籬宮」が現在の「志貴御県坐神社」。
共通するのは『シキ』と発音する地名。
『シキ』に由来する「敷島」は日本の国号になったほど由緒深い。
このため「敷島」は「日本(やまと)」にかかる枕詞になったもの。
「磯城島の 日本の国に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ」(万葉集)
元伊勢の候補地になっています。
御朱印は、桜井の「三輪坐 恵比須神社」で頂くことが出来ます。
しきのみあがたにいます、とよむ。
御祭神 / 天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと) この地は第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)、いわゆる皇居だったと言われる場所です。
ほとんど、跡形もないけどね。
崇神天皇の営んだ磯城瑞籬宮趾の傍らにたつ神社。
名前 |
志貴御縣坐神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33891 |
評価 |
3.8 |
初めて伺いました三輪の恵比寿神社の宮司さん聞きました。