天まで玉屋を開きガラス玉細工を始めた。
大阪ガラス業発祥之地 碑 / / .
大阪天満宮の正門の西側にあります。
1979(昭和54)年 大阪硝子製品協同組合の設立30周年を記念して建立されました。
(ちなみに文字は天満宮の寺井宮司の揮毫によって書かれています)江戸中期の宝暦年間(1751~1764)大阪天満宮の前で長崎の商人・播磨屋清兵衛がガラスの製造を始めたことで「大阪ガラス商工業ノ始祖」だとされています。
播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ちこみました。
その後、1819(文政2)年には今度は渡辺朝吉という人物が川崎村(現在の北区西天満六丁目付近)にガラス工場を作ります。
同じ頃にガラスの製造法が江戸に伝わったともいわれていますから、ガラス製造の開始に関しては江戸よりも「大阪の方が早かった」ことになります。
その後、安永~文化年間(1772-1818)には 大阪・天満は日本一のガラス製造都市となりましたが、天保以降になると次第に江戸にその地位を奪われていき、現在は公害問題や産業構造の変化により衰退、 限られた数のメーカーが残るのみとなっています。
大阪天満宮の一画に石碑があります。
近隣のお店では大阪切子のグラスなどが売られている。
宝暦年間 1751年~1764年に、大阪天満宮の目の前で始まったガラス製造業。
長崎の商人である播磨屋清兵衛が始めたと言われ、大阪にその技術を持ち込んだ。
えびす門の前に石碑があるだけだが、こう言う碑がある事によって、現代の人間が歴史を知る事ができるのがありがたい。
江戸中期の宝暦年間(1751~1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた長崎の商人・播磨屋清兵衛が、「大阪ガラス商工業ノ始祖」だとされています。
播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込んだのです。
1819(文政2)年には渡辺朝吉という人物が川崎村(現在の北区西天満六丁目付近)にガラス工場を作ります。
同じ頃、ガラスの製造法が江戸に伝わったといわれていますから、ガラス製造の開始は、江戸よりも大阪の方が早かったことになります。
明治時代に移るとイギリスから新しい製造技術が入り、北区は、大阪のガラス産業の中心地として成長していきます。
『江戸切子:その流れを支えた人と技』という本には「大阪のカットグラス」という1章が設けられており、大阪のガラス産業の歴史の一端が詳しく記されています。
それによると、1875(明治8)年に伊藤契信が川崎村天満山(現在の北区与力町)にガラス工場を作り、1882(明治15)年には大阪最初の洋式ガラス工場を新設して、同地に日本硝子会社を設立。
1888(明治21)年には、日本硝子会社を退職した島田孫市が同じ天満地区に島田硝子製造所を興します。
この島田孫市は、大阪における洋式切子の端緒を開いた職人の一人であり、大阪の近代ガラスを象徴する人物だったといいます。
宝暦年間(1751頃)播磨屋(久米)清兵衛がオランダ人からガラス製造を学び、天まで玉屋を開きガラス玉細工を始めた。
蛭子門前にあります。
宝暦年間(一七五一)長崎商人播磨屋清兵衛天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ当時ノ玉屋ヲ開業 大阪ガラス商工業ノ始祖トナル。
大阪天満宮を見ていたらありました。
大阪でガラスが作られ始めたのは、江戸中期の宝暦年間(1751~1764)だそうです。
日本でのガラスの製造は、江戸より大阪の方が早かったそうです。
だとすると、「大阪ガラス業発祥の地」は、つまり「日本のラス製造発祥の地」ということになりますね。
名前 |
大阪ガラス業発祥之地 碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.5 |
大阪ガラス?祥の地。
通勤帰りにこの前を歩くたびに頭をひねっていたんですが、「?」の漢字は、碑文の文脈から見ても「業」と「発」を入れて、「大阪ガラス業発祥之地」と呼ぶのが最適解なのかなァ、と思いました。
この字の読み方、どなたか教えてください。
あと、これも通勤帰りですが、確かに天満界隈で切子ガラス製品を売ってるお店も見かけたことがあります。
江戸に先んじた大坂の玻璃の伝統の技が今も継承されている、ということでしょう。