下の登口から20分もあれば着きます。
冬の穏やかな日に登りました。
秀麗富嶽十ニ景のひとつだそうで本当に見事な富士山を眺められました。
山城跡には今迄何ヵ所か訪れてますが、目眩がするほど急峻な断崖は初めてです。
麓から見上げるだけでは判りませんから息を切らして登ったかいがありました。
「三カ所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。
」とされているようです。
あたりは開けた空間が広がってます。
夏場は木々が生い茂っており富士山方向は見えませんでした。
少し離れたところに大月駅や大月市内を見下ろせるスポットがあります。
大手からの登城はルートの落石のため通行止め。
搦手からの登山ルートのみ通行可。
こちらは登城のとっかかりの窟(これは一見の価値があります)以外本丸まで遺構無い。
山頂の城域は遺構良く残り、特に大手の揚城戸は迫力。
必見です。
他の人が、書かれている通り2022.05.04現在も畑倉登山口からしか頂上に行けません。
登山口へは、バス時刻表に合わせて行くか、大月駅から35分歩いて行くかです。
城跡だけ見るつもりでしたが稚児落としまで、登って来ました。
尾根伝いを歩き、鎖場を昇り降りしてると登山してる気になりますね。
2021年5月現在、岩殿山を登るルートは西側からの浅利ルートと北側からの畑倉ルートがあります。
丸山公園からの強瀬ルートは通行止めとなっています。
山頂には畑倉ルートから行き、30分くらいかかりました。
木漏れ日が射して明るく見通せる道でしたが、くねくねと曲がった上り坂は慣れていないせいか苦労しました。
山頂付近では滑りやすくなっており、鎖に掴まり登りました。
帰りの下り坂は比較的楽でしたが、滑りやすく、2回尻もちをつきました。
山頂にはテレビ塔くらいしかありませんでしたが、少し下ると記念碑とベンチがあり、そこでは大月の町を一望できます。
遠くにはリニアモーターカーの施設も見え、晴れて空気が澄んでいれば富士山もはっきりと見えます。
登るのは大変ですが、景色は素晴らしく、良い思い出になると思います。
山頂からの眺め、富士山🗻バッチリです。
山頂からの絶壁感は、半端ないです。
この城は落とせませんね。
なかなかの、登りでした。
普通の運動靴だと下山時に細かい石で滑るので、ある程度グリップの効く靴を履いた方が良いと思います。
番所跡や揚城戸跡辺り雰囲気が良くて好きです❣️
大雨の影響で教習所(畑倉登山口)側からしか登れませんでした。
上と下を見ながら登ると、射場、物見櫓、礫場、石落とし場、井戸など(昔は)攻防の拠点立ったであろう場所に気づけます。
崖の多い西側は登山目的の人が多いだろうと思うので兎も角、城巡りで来る人の多い東側は鎖場を多目に設置して欲しいです。
山頂は広い展望は北側以外は開けていて富士山まで見渡すことができる現在は畑倉登山口か、稚児落とし方面からしか来ることができないそれでも登山者はちらほらいたので人気の山なのだと思う。
2020年11月の日曜に訪問。
七社権現の方から登ろうとしましたが、山道は途中で崩落して通行止めとのこと。
とは言いつつ、通れるのではと七社権現と岩殿山の分岐まで進んでみましたが、想像以上に崩落が激しく、通行止めとなっていなくても通る気にはなれないほど。
ご注意ください。
また、ルート上、落葉が積もっており、滑りやすくなっているので、その点も注意が必要です。
富士山の眺めが最高。
三ツ峠山に登って、帰りに寄って見ました、北側の登山口から登りました。
2座登れていい汗をかけました。
思ったよりしっかりしたハイキングコースでした。
景色が良く、特に春は桜がよく見えるので春に行くことをオススメします。
山頂は予想外と思う人がいると思います。
グーグルマップスだと岩殿山の山頂が岩殿城跡ってことになってるけど、それらしきものは何も無かった。
昔はあったのかもしれないけど、今は無線中継点のアンテナが立ってます。
山頂がアンテナで、ちょっとテンション⤵️だった。
武田家の与力小大名、小山田氏の居城。
秩父平氏の名族だが武田家に従属し、主力として活躍した。
特に小山田信有や小山田信茂の活躍は有名で、徳川軍や北条軍を翻弄した名将だった。
城址としては小規模で鎌倉時代以来の名族らしい山城だが、城として見た場合室町時代の城としては後進的。
同地は天台系修験道の聖地でもあった。
標高の高い岩山の城だが湧水池があり籠城には耐えれるが、何せ平地が少ないので籠城できる総兵力はせいぜい数百~千未満と言った規模。
しかしながらハイキングコースとして見た場合は中々の眺望が楽しめる場所で、麓にも山梨名物のうどん屋が数軒有り良い休日を過ごせる。
山麓には資料館も有り、小山田氏の簡単な歴史解説も有るので歴史好きな人や山好きな人は楽しい場所。
大月駅より登られる方は正面より登城は出来ません❗岩殿城跡に昇りたい方は山裏側大月自動車学校近くの昇り口まで車又は歩きで移動したら登れますよ🎵登りにくいので履き物は運動靴等で・雨天後は逆に登らない方が安全ですよ❗苦労して登城のご褒美は美しい富士山を一人占め出来ますよ🎵
かなり若かりし頃、数日間お世話になった知人宅から比較的近い所にあったので、ハイキング気分で登った山が岩殿山でした。
標高634メートルですから、当時としては、少し高い山に登ったとの認識しか残っていません。
整備らしきことは、ほとんどなされていませんでした。
頂上まで登っていますが、きつい登り坂だったとも感じていなかったように思われます。
当地に暮らしていた同年代の同行者が危なくない道を選んでくれていたのかもしれません。
登りがきついと感じていたとしても、記憶に残っていません。
岩殿山よりもむしろそこに至るまでに渡った橋(高月橋)から下を眺め見た深い谷が強く印象に残っています。
その谷を流れていた川が桂川でした。
改めて調べてみると、とても興味深く感じられます。
ひとつは、岩殿山は、山一帯が岩石で構成されている山ですが、16世紀頃、甲斐武田氏の家臣であった小山田氏の居城があり、かつ戦国時代屈指の難攻不落の山城として、武蔵や相模勢力に対抗するための拠点であったとのことです。
小山田氏滅亡後も徳川時代を通して、国境警備の役目を果たしてきたことを知り、更に引き付けられました。
すると、それまで思い描いた岩殿山の見え方が変わってきます。
東西南北、全てが急峻な崖に囲まれていた・いる訳です。
鏡岩と呼ばれている礫岩(れきがん)が露出した約150メートルの崖があり、更には桂川までの深い谷を想像すると、特別な城好きではなくても、いつの間にか引き込まれてしまう魅力を感じさせられてしまいます。
いつの時代も、どこにあっても、地形に精通している人たちがいて、戦いの攻守を常に考え、備えをしていたことに感心するのみです。
特に、関心のある人からしたら、興味は尽きないのでしょう。
一体どこがハイキング程度の山?やはり、登山道を選んで楽しませてくださっていたと思うしかありません。
もうひとつは、初心者向けとして、年間6万数千人もの人たちを引き寄せている山になっていることです。
山頂からは富士山が眺められ、山梨百名山・秀麗富嶽十二景、関東の富士見百景にも選ばれています。
奥多摩山系の一隅でもあり、秩父多摩甲斐国立公園にも含まれているようです。
9世紀~13世紀にかけては、山岳信仰の対象であり、修験道の場として栄えていたことが、今に知らしめているように思われます。
東西南北「岩殿」「浅利」「強瀬」「畑倉」の4つの登頂コースがあります。
ところが、2018年6月には鎖場の一部や、2019年7月には鏡岩の崩落があり、「浅利」と「畑倉」は通行できますが、「岩殿」も通行止め、「強瀬」が丸山公園から頂上付近までの400メートル程が通行止めになっているようです。
「強瀬」のコースは、JRの大月駅からの登山コースに当たりますが、注意が必要とのことです。
なお、大月駅から登山口まで40分ほど歩いて、「畑倉」コースを利用されるのもひとつの方法かもしれません。
但し、中級者向けのルートのようです。
登山計画書の提出を求められています。
低い山だからと軽く考えると、大怪我をしないとも限りませんので気を付けましょう。
お出かけの際は、「大月市観光協会」のHP等で、新しい情報を入手されることをお奨めします。
追記わが祖先に関係していたのでしよう。
大月など、山梨県には子供の頃から何度か出掛けていました。
猿橋も通りました。
昇仙峡にも複数回出掛けていたような気がしています。
紫水晶のペンダントを買ったことがありました。
あれ、どこに行ってしまったのでしょう。
因みに、宝石関係のお店が山梨県には多いようで、一番店舗数がある?と聞いています。
無料駐車場あり🅿️。
軽装ではオススメできません。
道はかなり整備されていますが頂上まではかなり直線的にジグザグしているのでほぼ傾斜です。
10分ほど登ると資料館があり、そこで簡単な地図や情報を頂けます。
クマの目撃情報などもあるので要チェック!ベアベルをセットしました。
頂上までは30分ほどで登れました。
電波塔でお仕事されている方々もベアベル持っていたので、大げさと思わずに備えあれば…ですね。
城の遺構はあまり残っていないけど、唯一馬冷やしの池が残っています。
(井戸みたい)
きつくもなく登れて、こちらの眺めは良く、天気が晴天の日には富士山が素晴らしく綺麗に見れます。
ハイキング山です。
すぐ登れます。
往復2時間くらい。
絶景ポイントです。
Oyamada dono’s Iwadono Shiro.
大月の市街地と富士山を一望できる景色は圧巻。
ふもとの資料館は入場無料で、インターネットも少し使える。
下の登口から20分もあれば着きます。
登山道には秋は小さなドングリ拾いがたくさんあり、桜の季節はライトアップもされています。
武田勝頼もここに来てれば滅亡する事はなかったかもしれません。
主君に対する裏切りをやった者の居城後など残さなくていい。
もっと山梨や市の担当者はよく歴史を考えて下さい。
武田氏ゆかり小山田氏の居城。
本格的な山城で、頂上の本丸後までは駐車場から徒歩1時間弱。
下りは30分程度で降りられますが不規則な階段でかなり足に来ます。
スカイツリーと同程度の頂上からの眺望は達成感あります。
駅から歩いて登山口まで行けて都心から行くには便利です。
山頂の眺望はよく、稚児落としの鎖場はスリリングで、史跡でもあり色々楽しめます!来て良かった。
非日常で子供達にはアスレチック。
途中、少し危険な場所もありますので保護者は必要と思います。
名前 |
岩殿城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.pref.yamanashi.jp/damu-fk/otsukicentralpart.html |
評価 |
3.9 |
岩殿城(いわど(と)のじょう,山梨県大月市)県史跡,連格式山城,武田の三堅城の一つ,標高634m,比高260m別名 岩殿山城南から巨大一枚岩の下を抜けて西側を登る強瀬(こわぜ)ルートでは登れませんでしたが,北側から回り込んで登る畑倉ルートから登ることができました.強瀬ルートの上から巨大一枚岩の横までは行けたので城として大事なところはおおよそ見学できました.写真の順としては南下から登ったように並べました.眺めの良い城の中でも,ここまでの標高差を眼下に見ることは少ないと思いました.岩殿城の歴史について触れると,岩殿山は9世紀の初めに,天台宗岩殿山円通寺(いわとのさんえんつうじ)として開創されたと云われる.10世紀のはじめには三重塔,観音堂,僧房その他の建物が並び,門前町を形成した.戦国時代,大永7(1527)年,小山田信有は岩殿山山頂に岩殿城を築城した.武田,小山田両氏の支配地を,武蔵,相模に備える拠点の城とされた.武田信玄の頃には,武田24将の一人に連ねる小山田信茂が城主であった.信玄亡き後,天正3(1575)年,長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は急速にその勢力が衰え,天正10(1582)年ついに織田軍は甲斐に迫った.敗走した勝頼は,守りを強化した新府城へ戻ったが,その時の勝頼の従者はわずか千人程度であり,広大な新府城では,籠城もできないため,新府城に火を放ってさらに敗走した.後から創作された話のようだが,真田昌幸は,岩櫃城に,小山田信茂は,岩殿城に勝頼を招こうとし,勝頼は新参者の真田よりも小山田を信用し,岩殿城を目指したが,3月11日に笹子峠で信茂が織田方に寝返ったことが知られ,勝頼は,北の天目山・栖雲寺に向け移動中に滝川一益の軍に追いつかれ,田野付近で自刃し甲斐武田氏は滅亡した.その後,小山田信茂は織田信長に付こうとしたが,主を裏切った不忠者として処刑された.同年の本能寺の変の混乱で,一時,岩殿城には北条氏が入った.1590(天正18)年の小田原攻めにより,徳川家康が関東に転封されると,甲斐は徳川領になり,岩殿城には城番が置かれた.江戸時代に入っても,家康は幕府の緊急事態の際に甲府への退路を想定し,岩殿城の機能を保たせた.