久しぶりに海が見たくなって、稲村ヶ崎まで足をのばし...
極楽寺の灌仏会に参加したあと、久しぶりに海が見たくなって、稲村ヶ崎まで足をのばしました。
高台から景色を眺めようと、西側斜面の階段を上がったところ、コッホ碑を見つけました。
場違いな感じで、ちょっと意外でした。
コッホはドイツの医師、細菌学者で、結核菌、炭疽菌、コレラ菌の発見者。
現在の細菌検査法の基礎を築いた方です。
1905年に結核研究でノーベル賞を授与され、1908年に、以前からの希望だった世界一周旅行へ出かけ、日本も訪れたそうです。
このとき、ドイツに留学し、コッホの研究室で学んだ北里柴三郎が鎌倉を案内したそうです。
破傷風など感染症に対する具体的な治療法を開発したのが北里柴三郎。
偉大な研究者の成果を引継ぎ、あとに続く研究者が、更に先へ進めることによって医療は進歩してきたのですね。
新型コロナが、こんなにも長引くとは考えてもいませんでしたが、画期的な治療薬が開発され、一刻も早く収束することを願っています。
昨日伺いました。
高台の非常に眺めのいい場所でした。
ところどころ柵を乗り越えてはいけないの張り紙があったのが気になるレベルでした。
結核菌•コレラ菌を発見し「細菌学の祖」と呼ばれたドイツ人医師のロベルト•コッホ氏(1843~1910年)1908年に来日し 約一月の滞在期間中、鎌倉に招来し案内したお弟子さんの北里柴三郎•勝見正成両氏が追悼と功績を讃え、亡くなった2年後の1912年コッホ氏が風景を気に入り足繁く通った霊仙山山頂「仏法寺跡」近くの崖付近に記念碑を設立しました。
その後戦争や関東大震災による崖の崩壊、道も無くなり草木が生茂る山中という悪条件が重なり所在不明に。
1983年所在不明になっていた石碑を当時の資料などを元に探索•発見し、重さ2トンにもなる石碑をヘリコプターで現在の場所に移設しました。
石碑が元あった場所は鎌倉市坂ノ下にある「きしろホーム」をGoogleマップで検索してストリートビューを開いたら画面右上の崖の上辺りかと思いますが、現在は道も何も無く大変危険な場所なので軽い気持ちで近づかないようにしましょう。
コッホ氏の見た風景を楽しみたいのでしたら有料(大人¥400円)になりますが、長谷寺さんの見晴台もオススメです!
昔稲村ヶ崎の東側に霊山と呼ばれる山があった、そこに霊山園があり北里柴三郎がコッホを案内した、が関東大震災で崖が崩れ1983年鎌倉市医師会によりここに移された、そんな事を思いながら稲村ヶ崎に思いを馳せよう、意味もなく波音を聴きながら、コロナが収束し穏やかな日が来るよう!
稲村ケ崎のてっぺんからの夕焼け富士山がとても綺麗でした。
名前 |
Monument of Dr. Robert Koch |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
明治四十二年(1908年)六月、細菌学者ロベルト・コッホが来日する。
当時、コッホは結核菌やコレラ菌を発見した人物として知られており、特に結核菌を発見した功績からノーベル賞を受賞したばかりであった。
コッホを日本に招いたのは、日本医学界の権威であった北里柴三郎であり、彼はドイツ留学時代にコッホを師事していた。
つまり、コッホは北里の恩師にあたる。
コッホは、北里に連れられ、日光、鎌倉、伊勢、奈良、京都、神戸などを旅行し、特に鎌倉を気に入った(全行程の約3分の1にあたる25日程度を鎌倉で過ごした)。
この石碑はその旅行時の事跡を記したものの様である。
翻刻】明治四十二年七月獨國大醫古弗先生偕北里博士遊鎌倉望富嶽而快之博士為榻設於靈仙山上先生昕夕縱目心甚喜之既西歸未幾而歿山之主村田君及某某等相謀立石以志遺躅山下即稻村埼為元弘役新田左中將投刀之地海濤翻空與嶽雪輝映今則為海外偉人㽞賞之所此亦可以傳也大正元年九月 永坂周 記并書書下し】明治四十二年七月、獨國大醫古弗先生、北里博士と偕に鎌倉に遊び、富嶽を望みて之を快しむ。
博士、榻を為り、靈仙山の上に設し、先生、昕夕、目心を縦いままにして、甚だ之を喜ぶ。
既にして西歸し、未幾ならずして、歿す。
山之主村田君及び某某等相謀りて、石を立て、以て遺躅を志す。
山の下は即ち稻村埼を為す。
元弘役、新田左中將の投刀之地にして、海濤翻空と嶽雪輝映たり。
今則ち、海外の偉人の留賞之所たり。
此もまたすべからく伝えるべくなり。
大正元年九月 永坂周記并書私訳】明治四十二年七月、ドイツ国の大医であるコッホ先生が北里博士と共に鎌倉にやってきて、富士山を眺めてこれを楽しんだ。
北里博士は榻(ソファ)を作り、霊仙山の上に設置し、コッホ先生は、夜明けから夕暮れまで、目と心をほしいままにして、非常に喜んだ。
やがてドイツに帰国したが、少しも経たない間に亡くなってしまった。
霊仙山の所有者である村田君と私達は相談して、石碑を立てて、この事跡を残そうという話になった。
山の下には稲村ヶ崎があるが、これは元弘の役の際に、新田左中将義貞が刀を投げ入れた地であり、海濤翻空と嶽雪輝映(風光明媚な場所というこも)のところであった。
現在では、海外の偉人が感動したところであり、此もまた後世にすべからく伝えるべきものである。
大正元年九月 永坂周記并書。