蜆(しじみ)川、をご存知ですか?
北新地の筋違いに昔は川が流れていて、その橋を蜆橋と呼んだようです、大阪も戦後川がどんどん埋めたてられ、そこが高速道路になり、又道路になりました❗車🚙の増加に都市がおいつてない証拠ですねぇ❗車製造会社にも一つの問題があります。
どこにちょっと出掛けるだけで車🚙ですからねぇ❗日本の国土の狭いのを知っているのか、トヨタの社長等儲けて御殿でも建ててるのでわ。
☺️😰😣😵😰😰
かつて流れていた蜆川(曽根崎川)と、架かっていた蜆橋の存在を後世に伝える碑です。
明治42年の北の大火で灰燼に帰したこの地域ですが、蜆川はその瓦礫により埋め立てられてしまいました。
当時の絵葉書が残っていますので併せて投稿させていただきます。
北新地の芸妓、娼妓が大混乱で逃げ惑ったと記録されています。
普通に石があるだけです。
橋はないですね。
しじみ橋の解説の碑文は変色、腐食で字が読めないし、周りが物置みたいになっている。
この北新地の当たりはよく知っている積もりでしたが、北新地からいっぼん南側になり、大分前に埋め立てられてますねぇ❗️昔若かりし頃梅新の梅田東映に来て、中村金之助、東千代の助等の股旅をよく見ました。
その後飲むようになり北新地も良く歩きました。
入るのは上司のおごりですが❗️ソファーとカウンターが値段が違うのも教えてもらいました❗️普通人は寄り付けないです❗️☺️☺️☺️
蜆(しじみ)川、をご存知ですか?大阪中之島に昔もう一本川があったそうです。
その名残りがしじみばしの碑です。
この川のせいで新地近くの道がいびつな角度になったわけですわ。
建物の壁になっているので、分かりづらいです。
元禄年間に河村端軒が蜆川を改修して堂島新地・曽根崎新地が開かれた。
よく通り過ぎてましたが、ひっそりと碑が建ってます。
よく通り過ぎました。
ここに川が流れていたなんて今では考えられないですね!
1863年、新撰組の前身となる壬生浪士組8人が、狭い蜆橋の上で大坂相撲の力士達と道を譲る譲らないで口論となり、芹沢鴨が鉄扇で力士の一人を打ち据え道を開けさせた。
この直後、北新地の住吉楼で飲んでいた浪士組の元へ力士30人あまりが報復のため押しかけ乱闘となり、力士側に複数の死傷者を出す結果となった。
これが新撰組が部外者を切った最初の事件という。
浪士組と力士。
名前 |
蜆川跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒530-0002 大阪府大阪市北区曾根崎新地1丁目1−49 |
評価 |
3.1 |
落語「池田の猪買い」で大阪から池田に行く道中の説明で出てきます。
<淀屋橋・大江橋・蜆橋と橋を三つ渡ると、お初天神という天神さんがある>との流れです。
淀屋橋・大江橋は現存しますが、硯橋は現存しません。
堂島川の大江橋より上流から北側に蜆川(しじみがわ)という川が分岐して流れていました。
その川に掛かっていた橋が蜆橋でした。
曽根崎川という名前が川の名称でしたが、通称として蜆川と呼ばれていたそうです。
川と橋は往時の人の流れ、賑わいの証拠ですから感慨深いです。
何気ない街並みにも意味があることを感じさせてくれる場所です。