真田幸村(信繁)公のお墓のあるお寺。
心眼寺はかつて真田丸(真田幸村出丸城)があったとされる場所に建てられた寺です。
1622年(元和8年)4月、真田幸村とその子・大助の供養のために、真田家の祖先である滋野氏の一族ともいわれる白牟(はくむ)和尚によって創建されました。
寺の定紋は真田家の六文銭、山号は「真田山」とあるように、真田家にゆかりのある寺です。
当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、幸村の墓をつくることは許されませんでしたが、「大坂冬の陣」から400年目(=信繁四百回忌)にあたる2014年(平成26年)に墓碑が建立されました。
真田幸村とその子大助の冥福を祈る為江戸時代に再建された寺院、京都見廻組の桂早之助、渡邉吉太郎のお墓が有ります。
玉造駅から三光神社を出、しばらく歩くと心眼寺に辿り着きます。
ここも真田丸出城跡なのです。
真田丸は三日月型をした形から偃月城とも呼ばれていたそうで、元は「笹山」と呼ばれる小丘陵だった事が書かれています。
墓所もあり、手を合わせました。
御朱印は書置きでしたが頂けました。
寺の建物にも六連銭の模様が見え、心が浮き立つとともに引き締まる思いがしました。
京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎の墓所もありました。
大阪48願阿弥陀巡礼の第11番でもあります。
心眼寺さんの庭を設計施工しました。
門に真田幸村出丸城跡とありましたので、入口だけ撮影しました。
時間がある時にまた訪問したいですね。
歴史好きにはたまりません。
口コミで事前に知ってはいましたが、社務所は留守がちであり、お伺いした時も不在でした。
天王寺区のお寺は境内に墓地を持っている所が多いのですが、こちらはお墓のイメージが強く感じられました。
三光神社、興徳寺、どんどろ大師に行けばやはり、真田幸村u003d心眼寺です。
書き置きの御朱印を頂きました。
なんといいましょうかさっぱりとした……特に何も無い寺でした。
平成30年5月21日参拝大阪新四十八願所阿弥陀巡礼 第十一番札所御朱印あり(書置き)本尊:阿弥陀仏座像宗派:浄土宗元和八年(1622年)白牟和尚が真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立したのが始まりとされる。
大坂冬の陣の大阪城出丸城郭跡で、幸村鎧掛けの松の木もあったが、昭和二十年(1945年)の大阪大空襲により堂宇ともども焼失した。
玉造駅から徒歩15分程度、真田丸顕彰碑の目の前にあります。
お寺の入口に真田幸村出丸城跡地の立派な石碑が立っています。
境内に入ると信繁の墓があります。
真田山公園と間違えやすいので気を付けないと迷います。
山号を真田山、心眼寺、大坂冬の陣の出城、真田丸に建てられた真田信繁、大助の菩提を弔うお寺ですここに来ると真田信繁のファンに逢う事ができ情報交換も出来るなかなかのスポットまた坂本龍馬殺害の容疑者、京都見廻組、桂早之助、渡辺吉太郎の墓所でもあります。
大阪冬の陣・夏の陣で豊臣側に味方して主役級の大活躍をした真田信繁のお墓がありました。
元々このお寺は夏の陣の数年後に真田信繁とその息子・大助を弔うために白牟というお坊さんが建てたそうですが、お墓を建てることは徳川幕府から許されず、400年経ったつい数年前にやっと建てるに至ったそうです。
また、境内に「まんなおし」のお地蔵さんがいらっしゃいましたが、まんなおしとは「不運を幸運に変えてくれる」という御利益があるそうです。
眞田丸出城跡です。
遺構などはありませんでした。
跡碑と説明板がありました。
境内には墓碑もありました。
とてもよく整備されております。
まさに歴史が動いた場所ですな。
皆さんも訪問してそれを感じてみてください。
大阪御朱印巡りで参拝にきました。
御朱印は書き置きのものですが、日付は入れて貰えました。
眞田幸村とその子大助の供養の為に眞田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てたお寺。
眞田幸村が、まん悪きとき、開運の祈願をかけると願いが叶ったと伝えられている「まんなおし地蔵尊」が建っている。
まんなおしのまん「間」の転音で「なんてまがよいのでしょう」等という運、めぐり合わせの意味で、まんなおしは不運を幸運に変えることで、運直し・縁起直し・げん直しの意味。
京都見廻り組だった、桂早之助と渡辺吉太郎のお墓が現存。
玉造駅から10分程度です。
大坂の陣の真田丸の辺りにあるお寺で、激戦地であったことから、数年前に真田信繁(幸村)のお墓を設けられています。
地名に例えば真田山小学校などこの辺は沢山ありました。
びっくりしたのは、今頃になって新たな発見みたいなことが不思議でした。
「真田丸」跡に信繁父子を祀る心眼寺を創建 1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめた。
翌年、「大坂夏の陣」で幸村は討ち死にする。
そして豊臣家は滅亡しました。
元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に、幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建。
それが心眼寺です。
寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山です。
しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村の墓をつくることは許されなかったようです。
お寺周辺は真田丸跡が残っており歴史を今に伝えています。
心眼寺の要塞ぶり(地形は改変されてる)を考えれば、真田丸の1部でまずまず、間違い無いでしょう。「あんさん…ホンマでっか?」南北に並ぶお寺群が古地図とほぼシンクロしているし、そもそも真田丸は小砦なんかでは無くて。信繁さんが意図したのは上田城の再現”真田城”だったのでしょう! 「そら…えらいこっちゃ!」その闘いぶりがその事を示している。大河ドラマが終わった今が、史跡巡りのチャンスですよ~。寒いしひと気も少ないし。さぁブラブラ👣👭しましょう~。
真田丸ブームに困ってそうな雰囲気?? 本堂も社務所も閉まっていました。
真田信繁の墓と京都見回り組隊士の墓。
徳川の世の、はじめと終わりに関わった人物の墓が同居、 なかでも桂早之助は竜馬を斬った人物といわれている。
2016/7に訪問しましたが、すっかり真田丸一色でした。
門の扉に六文銭の刻印がありましたが、妙に新しいような.
名前 |
心眼寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6764-0630 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
真田幸村(信繁)公のお墓のあるお寺。
真田丸のポスターがあったり、真田の六文銭があちこちにあったりと、真田好きは一度は訪れておきたい場所。
暑い時期であれば、まんなおし地蔵尊が安置されている小屋の中にベンチがあるので、一休みするのも悪くない。
JR玉造駅から徒歩10分少々で到着できるだろう。