名前 |
篠塚神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0274-22-0414 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
御祭神 豊城入彦命 大穴牟遅神 篠塚伊賀守重弘神社入口の鳥居は社殿より南側25m位の参道の先にあります。
神社周囲は農地で、鳥居より南側も農地なので、鳥居に繋がっている道は農地と農地の間の畦道だけです。
参拝するには神社北側の舗装道路、神社の裏側から農地と民家の間の細道を通らなければ行けません。
境内の社殿左側に朱い鳥居があって、石祠と石像と石碑と石燈籠が並んでいます。
石祠は「手長男大神」と「弥五郎大神」が祀ってあります。
また、伊賀神社は地図によっては「篠塚神社」と記載されています。
どちらの神社名であっても、御祭神の「篠塚伊賀守重弘」に関連していると思われます。
篠塚伊賀守重弘は南北朝時代の南朝方の武将で、重廣や篠塚伊賀守として記述されています。
新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた人物です。
案内板や資料など見つからず、詳しいことは分かりませんでしたが、「篠塚」という地名や御祭神がこの地に祀られた経緯などを調べると何か見えてきそうな気がします。
追記藤岡市篠塚町 篠塚伊賀神社畑の中にたたずむ神社で 創建江戸時代宝暦九年(1759)。
篠塚伊賀守重広が担いだとされる手玉石というのが境内にあり、篠塚伊賀守重広を祭神とし赤城神社と稲荷社も合わせ祀ってある。
この地に篠塚伊賀守重広の屋敷があったとされる。
(「新田一門誌」)子孫の方が足利軍から逃れるため宮原を名乗り越後から移住したとあり、長岡市加津保町の新田家臣篠塚主計の居城、血の峰城が暦応三年(1340)(興国元年・延元五年)に上杉軍に攻められ八月十二日に落城、374人全員が討死、谷川の流れを血に染めたとありこの地を生害谷と呼んでいる。
その篠塚主計の息男が脱出、上州緑野郡篠塚村に居住し宮原を名乗り、その末裔宮原一伝は剣豪上泉秀綱の門弟で八天狗の一人で上泉が永禄六年廻国修行に出た後篠塚で帰農、先祖伊賀守重広を祭神とし伊賀明神を建立したとする。
(「新田四天王 篠塚伊賀守重広」より)