少し山の中にあるから夏とかは蚊に刺される!
宣化天皇の子孫、多治比真人縣守(たじひのまひとあがたもり)は養老元年(717)3月、遣唐押使として総員557名で出発。
翌年12月13日京都へ帰還した。
その際機織りの菖蒲(しょうぶ)姫を伴い、抜鉾神社の神衣を織らせたとの伝承が残る。
その時縣守は武蔵守に任じられ、相模・上野・下野国の安察使(あぜち・国司を監督)を兼務していた。
機織り機を『機足・はたあし』と呼び、姫が亡くなった時この付近に塚を造り菖蒲塚、機足も塚に納められ機足塚と呼ばれた。
故に、神社へ昇る坂に機足坂の名称が残る。
縣守は天平9年(737)天然痘の流行で68歳でこの世を去った。
又、現在は貫前神社が抜鉾神社と一社にされており、織物の神でもある貫前の姫大神が、赤城の神に生糸を請われ融通した事に依り『一之宮』を譲られたとも伝わる。
創建は元慶元年(877)正月と伝わり、延喜式外従五位上、縣明神とも県守神社ともかつては呼ばれていた。
1074年頃基房が秩父から賀美郡勅使河原村に移り住み、勅使河原を名乗った。
その子孫が富岡市上黒岩に移り、今もなお管理をしている。
貫前神社と抜鉾神社の二神号が一社にされたのは、徳川三代将軍家光がかつての徳川家康が建立と伝わる小社な社殿を、現在の楼門迄含む大規模な社殿に造り変えた事による。
その為旧参道が使えなくなり、現在の急勾配で神を見下ろす危険な階段が造られた。
貫前神社の跡には伝徳川家康建立の社殿が日枝神社として鎮座している。
貫前神社と抜鉾神社の謎を解き明かす鍵です。
名前 |
藤塚稲荷神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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