正平7年/文和元年(1352年)に赤松則祐が築城し...
2年前から計画していた😁龍野アルプス縦走やっと完歩🚶u200d♂️
小学生が遠足で登るらしい!いいねぇ!
私は馬立里山公園から入山し亀山ルートにて登山しました。
中腹以降非常に登りがきつくなるのでご注意下さい。
私は比較的気温の高い日に登山したので、本当にタオルが絞れるくらい汗だくになりながら登りました。
約80分程度で主郭まで辿り着けます。
但し、亀山を過ぎてしばらく城山を目指すと途中で登山道が無くなりマップを頼りにいつものように雑木林の中を登って行くような感じで最後は辿り着けました。
途中に堀切や石塁なども見れます。
また眺望は有りませんでした。
城山城(きのやまじょう)は、正平7年/文和元年(1352年)に赤松則祐が築城した播磨国の山城である。
兵庫県たつの市の亀山(きのやま)(標高458m)の山頂にあった。
元々この山には663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築城した古代山城があった。
そもそも、赤松氏の居城は則祐の父赤松円心が築いた白旗城であったが、播磨の西に寄りすぎていたため新たな居城として則祐が正平7年/文和元年から10年以上の歳月をかけ、この兵庫県下屈指の山城を築いた。
麓には則祐・義則の2代にわたる守護所、「越部守護屋形」があった。
尾根までの道のりは後半にかけて激坂です。
道というより岩のみかつ獣道が続きます。
尾根上には亀の池や亀石、蛙石(添付写真でわかるかな)と見応えのあるオブジェが続きます。
登山時は亀の池が干上がり気味で半分以上底の砂が見えていたのでそこを歩きつつ撮影できました。
平地の池と違い、鳥や虫のさえずりが全くないが紅葉はしているので不気味でした。
尾根筋から城跡までが登山距離に匹敵するのでここからが大変です。
戦国期(500年前)の遺構は少なめ(というより杉の木だらけで判別が難しい。
曲輪も東西南北にぐるりとあるのですが案内版がない為、どれが二の丸だか三の丸だか分かりにくい。
堀切に案内する為の道が西の帯曲輪の真ん中を通ったりしてます。
曲輪の案内も欲しいところ)ですが、中大兄皇子の時代(1300年前)の石垣が綺麗に残っています。
ていうか石垣は全て古城の頃のものかと。
百済の職人の技術ですね。
その時代の門の礎石や寺の礎石跡もあります。
嘉吉の乱後に赤松満祐の自刃したと思しき跡地に供養塔がありました。
ここも杉の木だらけでもうちょっとなんとかならないかと。
昼なお暗すぎます。
亀の池などは弥生時代の高地性集落跡地ともいわれますが真相はわかりません。
ため池ですがとっても綺麗です。
新宮町の山神社から古墳群を抜けて登山道を通ると亀石にたどり着きます。
そこから近畿自然歩道を通ると亀の池と亀山(城山)の分岐点にたどり着く。
亀山からすぐの所にあります。
古代山城なので姫路城のような天守は見られません。
高くて太い木々が郡立してますが、地形が平たくなっているのが分かります。
近くには「門の築石」という古代山城の石門もあります。
城山城跡へは複数ルートがあり、山神社からは大手道コースといいます。
ちなみに大手道コースの案内板は登山道を登り切った亀山(城山)と亀の池の間の自然歩道にあるので、不安であれば事前に情報を得てから散策されることをオススメします。
きのやまじょう南北約550m、東西約250mの規模を有する巨大な山城で、古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しており、比高は400mを越え、東側斜面は急峻。
白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築城した古代朝鮮式山城があった。
朝鮮式山城の遺構は主に西側斜面残っている。
赤松則祐が正平七年から10年以上の歳月をかけ、城山城を築き、東麓には則祐・義則の2代にわたる守護所「越部守護屋形」があった。
遺構は、亀山頂部と南東側の二つのピーク一帯に多数の郭、堀切、土塁、横堀、石垣などの中世山城遺構が残る。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際、赤松満祐は城山城に籠城したが、幕府軍に攻められ満祐は一族69名とともに自害して城は落城した。
天文七年(1538)播磨へ侵攻した尼子晴久が城山城を再興し本拠としたが、3年後撤退し廃城となったという。
兵糧道より往復、地元の方が最近トラロープや木橋の掛け替えをされていますが、浮石の多い荒れた谷筋の登山道をたどると、見張り石の先で雰囲気が変わり、城跡に入ります。
名前 |
城山城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
登りきつし、展望台は見晴らし良くしてくれててサイコーでした♫ヒルに噛まれた〜下りは滑りながら降りました(笑)