本殿は拝殿の後ろ側にあります。
本殿は彫刻が素晴らしいとのことですが、風雨避けの建物の中で、窓から覗き見ることしか出来ません、覗く限りでは彫刻には彩色は見られませんでした。
御神体は赤城山の小沼を神体化したものです。
境内は広く、南向きです。
境内に建つ由緒書きの石碑によると、『赤城神社由緒記』一、鎌倉時代(1190~1332)末新田氏家臣渋沢氏は氏神に赤城大明神を奉祀一、南北朝時代(1339~1392)渋沢氏は南朝を奉じて破れ新田一族と共に利根郡老神に隠逸一、南北朝合一(1392)後渋沢氏は帰郷の途次大洞の赤城神社に祈念平塚に勧請一、応永八年(1408)正月七日関東管領足利満兼畑一町歩寄進一、赤城神社と尊崇した新田岩松氏の中黒紋を赤城神社紋とす・・・云々。
広瀬川が利根川に合流する、利根川左岸(北側)の境平塚の集落を前方に据えた田畑に鎮座し、広く赤城おろしの吹きすさぶ田園地帯が後方に控えています。
本殿の周りを保存するために囲まれていて、良く見ることができません。
説明板に写真があります。
立派な造り。
御朱印は、社務所に案内ありますが、私は、世良田八坂神社で書き置きを頂きました。
¥300
開けた農地の中に祀られる 覆い屋の中の本殿は見えそうで見えない。
御祭神 大己貴命 豊城入彦命平塚赤城神社は、鎌倉時代に新田氏の家臣渋沢氏が赤城大明神を氏神として祀ったとされ、永禄12年(1569年)に社殿を造営したとされています。
(神社由緒より)伊勢崎市指定重要文化財 平塚赤城神社本殿群馬県伊勢崎市で物資の中継地として栄えた河岸場、境平塚に社殿を構える神社です。
現在の本殿は、1853(嘉永6)年に造営された建物です。
本殿を取り囲むように施された彫刻は、渕名の名工として知られる弥勒寺音次郎、音八父子の作と伝わります。
向拝の八方にらみの龍、脇障子の西側の羽目板には赤壁高士舟遊、東側には虎渓三笑をはじめ、腰組の碁打ち像、弾琴像や唐児彫りなど、目を見張るような彫刻が鏤められています。
また、神社には御輿を利根川に入れる川入神事が伝えられています。
(伊勢崎市公式HPより)「平塚赤城神社のお川入れ」は、二百年以上も前から続く神事で、毎年七月七日に行われます。
白装束の総代五名と祭りの世話人代表の計十名が平塚赤城神社を出発し、利根川の、かつて栄えた平塚川岸跡へ向かった後、ご神体を利根川の水で三回素早く洗い清めるというものです。
その後、ご神体を洗い清めた利根川に、切り餅ときゅうりを流し、かつては氏子がそれを拾い上げて無病息災を祈願したと云われています。
この種の川での神事は県内でも珍しいと云われ、上野村の乙父神社や乃久里神社、神流町の中山神社で行われているお川瀬下げ神事(いずれも県指定重要無形民俗文化財)と、このお川入れ神事だけです。
(境内案内板・境内石碑・伊勢崎市HPより)このすばらしい本殿彫刻は、本殿保護のための覆屋に囲われています。
覆屋横のガラス越し、または下の隙間から見上げるように彫刻の一部を見学できます。
名前 |
平塚赤城神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.isesaki.lg.jp/soshiki/kyoikubu/hogo/bunkazaihogo/shitei/kenchiku/2982.html |
評価 |
3.8 |
本殿は拝殿の後ろ側にあります。
保存用建物の中にありました。