石碑があるだけですが勝頼好きには良いです。
癒される メダカが沢山いました。
武田家最後の天目山の戦いの激戦地です。
石碑があるだけですが勝頼好きには良いです。
天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行がようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り城主小山田信成が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦をする事に決め付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒43人等、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った、其時かねて侫人の讒言により主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞ふた、勝頼はあっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であったと直ちにこれを許した、その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしかったが主従はこの地で朝を迎えた、3月11日田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た、 織田、徳川軍の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約4千である、勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き 新羅三郎以来武田家に相伝された小桜韋威鎧楯無の鎧を着せてカン甲の式を挙げた、駒場口より攻め寄せる織田、徳川軍の先鋒隊滝川一益、河尻鎮吉の軍勢4000に対し武田勢の秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒等(説明板の文章だと土屋昌恒の名前が出てきますが、この日土屋昌恒は大蔵原で小山田信茂の軍勢と戦って討ち死にしたはずなので解釈に困りました)100人に満たさる小勢を以てこれを迎え撃ち、撃退する事数度この間に田野の勝頼公一行は従容死を決するを得せしむ現在の景徳院の境内に有る、生害石、甲将殿直前に3枚の扁平なる石有り、勝頼公、北条夫人、世子信勝公の生害せし処、山雲月を掩ふて夜色自ら惨たりと史書はこの時の様子を伝える此処が武田家滅亡最後の激戦地、多勢に無勢と武田方に利なく全員討ち死にとなった場所で、地名の鳥居畑は近く鎮座する田野の産士神として祀られる氷川神社への参道入り口で一の鳥居のあったところから名付けられたとの事でした、この場所も駐車場が有りません、近くに有る橋の袂に車一台が路駐出来るスペースは有りますがあまりお勧め出来ません、四郎作古戦場の石碑の前から鳥居畑古戦場まで約150m位でしたので景色を楽しみまながら歩いて来ましたが、川風が心地良くこの激戦地に春が近くまで来ているなと思いました!
武田勝頼公天目山記所縁りのスポットガイド勝頼と随従の一行は天目山を目指して渓谷の崖道を進みました。
しかし敵はすでに先回りして行く手を阻んでおりました。
一行は土屋惣蔵ら数人を防ぎ手として残し、再び田野に戻りました。
そして鳥居畑と呼ばれる所で柵を結い、敵を迎え討つ支度を整え、さらに勝沼方面からの敵に備えて小宮山内膳らが下流方向に前進して警戒にあたったのでした。
まさに進退窮まるとはこのことで、勝頼一行は皆今日が最期と覚悟を決めたのでした。
1582年3月11日未明、天目山の戦いにおける織田対武田最後の激戦地跡。
とはいえ織田軍4000に対し武田軍僅か43名、主君・勝頼が自害する時間を稼ぐためだけの戦いも何度か押し返すこと数度、多勢に無勢で全滅。
現地に行くと日川を挟んで陣を敷き防衛線にしたのが分かります。
すぐ背後には小高い丘となっている勝頼が自害したとされる景徳院が。
甲斐大和駅から20分少々、四郎作古戦場から200m、景徳院まで200mといった距離で、この一帯が武田家最後の地といえるでしょう。
武田家のため最後まで付き従った忠臣達に手を合わせました。
武田勝頼公に興味がない人には無用の場所。
「土屋惣蔵片手切」はもっと上流、竜門峡入口よりもさらに遡ったところ。
名前 |
鳥居畑古戦場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
戦国大名武田氏終焉の地勝頼の墓はすぐ側。