下田では散策途中に見つけた「唐人お吉記念館」(宝福...
私が特別思い入れる場所です。
坂本龍馬の史跡にもなりますが、お吉さんと竹岡住職の史跡でもあります。
差別と偏見が人を理不尽に不幸にしないことを、願ってやみません❗️
下田のマイマイ通りにあるお寺です☺️坂本龍馬と唐人お吉の展示があり、係のお姉さんがとても丁寧に色々案内してくれました😘入場料もクーポン使用で350円と安く、下田に行ったらおすすめの場所で~す😃
龍馬が飛び、お吉が眠る。
宝福寺を拝見しました。
😭ああ無情…日本🇯🇵のLes Misérablesと思い涙が出ました🙏
猫がいて可愛かったです😹ここで飼っているのかな?
おきちの歴史について学べました。
下田では散策途中に見つけた「唐人お吉記念館」(宝福寺=ほうふくじ)に入りました。
演歌「お吉物語」で知っているくらいで、思い入れもなかったのですが、魔が差したのか、誰かに呼ばれたのか、入館料400円を払っていました。
お吉さんは有名女優が何人も演ずるほどの劇的な人生であったようです。
ただ、有名女優といっても昭和の女優さんばかりで、展示されたポスターも私にはちょうど良いセピア色をしていました。
興味深かったのは、アメリカ領事ハリスの愛人になったといわれるお吉さんへの評価が、当時と現在とでは変っていることです(当たり前ですが)。
年譜によるとお吉さんはアルコール依存症の果てに川に落ち、48歳で亡くなっています。
客観的に見るなら偏見と嫉みにさらされた不遇の人生でありましたが、その反面、芝居などで取り上げられる、魅力的な人物でもあったのでしょう。
お墓を作り直してくれる人がいたり、資料を集めて記念館を作る人もいたり、下田というまちの懐の深さというか「沼」を見る思いがしました。
有名な観光スポット「ペリーロード」のきれいな柳並木は、ここが花柳界であったことを教えてくれます。
お吉さん自作の都々逸が展示されていました。
「どうせ正気ぢゃ 世渡りゃ出来ぬ ままよ剣菱鬼ころし」。
2020 2 18本日、宝福寺にて参拝させて頂きました。
初めての参拝です。
「文久3年1月16日、宝福寺に滞在中の山内容堂に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許される。
当日、龍馬は町の旅館にあって、その朗報を待っていた。
」なんて、歴史のあるお寺ですね🎵宝福寺の本堂の前の桜が綺麗です🎵〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️宝福寺は1559年の開基以来、浄土真宗の寺院として地元の方々の信仰を集めてきました。
宝福寺が歴史の表舞台に登場したのは、1863年のことです。
宝福寺に滞在していた第15代土佐藩主山内容堂の元へ勝海舟が訪れました。
勝海舟は、山内容堂へ弟子の坂本龍馬が土佐藩を脱藩した罪の許しを乞うたのです。
この会談は成功し、坂本龍馬の脱藩の罪は許されました。
下田は1854年に日米和親条約締結後、函館とともに日本で一番最初に開港された場所です。
この日米和親条約が締結される際、宝福寺に下田奉行所が置かれ、日本全権の本陣になりました。
明治になると宝福寺は菊のご紋章の使用を許されます。
その後は第一回徴兵検査の会場になったりと、公共施設的な役割も多く果たしました。
宝福寺には、第15代土佐藩主山内容堂に勝海舟が謁見した部屋が、当時のままの姿で残されています。
部屋の中には山内容堂が勝海舟にお酒を勧めたときに使われた朱の大杯(実物)。
山内容堂の肉筆の絵が描かれた扇子(レプリカ)・当日のことを記した勝海舟の日記などが展示されています。
幕末好きの方にはどれも一見の価値があるものばかりです。
唐人お吉、坂本龍馬で有名な寺院。
1559年(永禄2)本願寺11代顕如、法孫釈了善が織田信長の圧力より逃れ創建。
坂本龍馬と唐人お吉にまつわる旧跡です。
見どころに乏しく拝観料に見合った満足感は得られませんでした。
境内はよく手入れされていてお寺の方の対応も丁寧でしたので評価は★二つとしていますが、ついででなければわざわざ参拝するほどのお寺ではないように思います。
お吉のお墓と記念館が有ります。
竜馬のゆかりの品も展示してます。
開国記念館へ向かっている途中に大きな看板と遭遇して嫌でも気付かされた。
広告の必要性をまざまざと感じた。
小キレイな感じの小さなお寺だった。
いつものとおりここまで来れたことの感謝を述べた僕だった。
(2019_09_25)
伊豆急下田駅より歩いて10分位。
駐車場も有ります。
美しい芸者のお市の菩提寺で、お墓や記念館が有ります。
また、勝海舟により竜馬脱藩の許しを得た地と言われてます。
1854年、日米和親交渉にあたり日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた場所。
それより以前、滞在中の山内容堂に勝海舟が謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許された寺、また唐人お吉の菩提寺としても有名。
歴史やロマンが好きな方には大変面白い場所だと思います。
龍馬が目立ち、ミーハーないい加減なお寺かと思うと、そうでもありません。
日米和親条約が締結されて下田が開校されましたので、浦賀に行っていて下田には置かれていなかった奉行所がこの宝福寺に設けられています。
しかし、これは仮のもので、下田警察署のところに翌年奉行所が建てられました。
また、ここは唐人お吉の墓があることでも有名。
脇に展示施設もあります。
有料です。
唐人お吉は本名を斎藤きちと行ったそうです。
四歳のとき家族が下田に移り住み、十四歳で芸妓となりました。
十七歳の時、アメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾として奉公にあがることとなります。
しばらくして、今も建物が残る小料理屋安直楼を営むも二年後に廃業。
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいますが、お吉は身寄りもなく、宝福寺の第十五代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当寺境内に手厚く葬ったのだそうです。
その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っているとのこと。
幕末は、韮山代官江川太郎左衛門英武の本陣、農兵調練所趾だそうです。
写真は、勝海舟が飲み干した盃のようです。
瓢箪に比べてかなり大きい。
永禄2年(1559)建てられた浄土真宗の寺。
文久3年(1863)1月16日宝福寺滞在中の山内容堂に坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞うために勝海舟が来山。
龍馬は町の旅館にて朗報を待っていたそう。
またこちらは唐人お吉の墓がある寺としても知られる。
明治24年(1891)3月27日稲生沢川に身を投げて51歳の生涯を閉じました。
しかし身寄りもいない、外国人に身を売ったと下田の人々から蔑まれ引き取るものはなく、お吉の遺体はそのまま放置されていたそう。
哀れにおもった宝福寺15代竹岡大乗住職が亡骸を引き取り埋葬しました。
このとき住職も唐人坊と呼ばれたそうです…。
墓は二つあり右手風化したものが元々の。
左手が女優水谷八重子さん寄進のもの。
更に左にはかつての恋人鶴松の墓もあります。
外観とかは特に趣あるわけじゃないけど、坂本龍馬にまつわる逸話に泣ける。
古くから風待ち港であった下田港、京都や西から江戸へ行くのに海が荒れていたら下田で停泊していった。
ある晩坂本龍馬と勝海舟が風待ちしていると、ちょうど宝福寺に山内容堂がいるとの噂が。
勝海舟は寺に赴き、龍馬の脱藩の禁を解いてほしいと願いに行く。
山内容堂は勝海舟になみなみと入った大きな盃の酒を飲んだらその話をのもうと言った。
勝海舟は下戸であったが飲み切り、晴れて龍馬の禁を解いたとのこと。
※当時の脱藩は死罪と同等。
看板が派手です。
御朱印頂きました!
浄土真宗寺院。
お吉さんのお墓があります。
また、山内容堂と勝海舟が会談したお寺として有名です。
山内容堂と勝海舟会談の場所。
駅から近く、坂本龍馬の木像やかわいい石像があり、下田駅周辺の散策に入れたい場所。
名前 |
宝福寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0558-22-0960 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
お吉さんの短くて儚い一生に改めて歴史を感じます。
また坂本龍馬にも触れる事もできます。
幕末の歴史に興味のある方は是非伊豆下田まで。