桐生川ダムから草木ダムに行くときに通りがかり参拝し...
御祭神 菅原道真公由緒桐生城主由良成繁の重臣藤生紀伊守善久は、諸国遊歴の際、京都北野天満宮から神像を受けて自己の守り本尊としていましたが、天正十八年(1590)小田原落城後由良氏は桐生を退散して常州牛久へ移り、その際藤生善久は桐生郷へ土着、善久の弟藤生六右衛門は桐生川上流の此地石鴨に落着したので、神像をここに祀って藤生家の氏神にしたといいます。
大正初年には山地村の村社として村民七十余戸の尊信するところとなり、昭和二十一年六月三十日宗教法人令によって法人化し、昭和二十八年一月二十四日宗教法人法により、知事の認証するところとなりました。
(「桐生市誌由緒」より)桐生の民話(石鴨地区)※桐生天満宮は分家です。
昔、この辺りは藤生紀伊の守が治め、その守護神として祀っていたのが石鴨天満宮だといいます。
ある年の大雨で桐生川が氾濫し、「社殿」が流されてしまいました。
村人達が探した所、現在の梅田町一丁目「梅原地区」で発見、その地に祀ったのを「梅原天神」といい、その後現在の天満宮の位置に(桐生新町・赤城明神の森)へ遷され、後年に、桐生市の繁栄を迎えました。
この為、地元では、本家の天神様、分家の天神様と言うことがあります。
(境内案内板より)天神様の由来ひとしきりの雨足が軒を強くたたき始め、あたりの木々が頭を左右に大きくふりだしました。
石鴨の弥平は、降り続く雨のため木樵仕事に出られず、ここ十日間ばかりはからだををもてあましていました。
いろりにたきぎをくべながら、女房のおゆきと「早くあの青い空をみたいもんだね」と話していました。
いつもは遥か下の方から清らかなせせらぎの音を響かせる桐生川も、長雨にすっかりその優しさを失っていました。
清流が赤く濁って逆巻き、牙をむく恐ろしい大河に変身している桐生川を見続ける弥平に、いろりの火をかきまわしていたおゆきが「お前さん、お茶にしないかね」と、言葉を掛けたそのとき、腹の底まで響くような異様な地鳴りがして、二人の目の先の窓外を何やら大きな黒い固まりが、ゴーッとよこぎっていきました。
びっくりした二人は、慌ててその場へ伏しましたが、とっさに目と目で合図し合って、恐る恐る窓辺に寄って外を見ました。
すると軒下近くまでザックリとえぐりとられ地面が赤肌を見せ、荒れ狂って流れる桐生川にまでも続いていました。
そしてさっきまで長雨を耐えていた村の鎮守、天神様の社が、後かたもなく消え去っていました。
長かった雨がようやく上がり、桐生川は、まだ濁ったうねりを見せていましたが、村人たちは自分たちの家や畑の手入れを後まわしにして、鎮守様を探しに下流へと向かいました。
社は、ほどなく見つかりました。
流れ流れて梅原の地に打ち上げられていたのですが、12キロ余も濁流に流され続けてきたというのに、社はどこも傷んでいませんた。
早速、村人が集められ、社の引き上げにかかりましたが、村人たちが気勢をあげて社を引き上げても小さな木造の社はピクリとも動きません。
そこで近くの神主を招いてお払いをしてもらったところ、「ご神体が釜が淵の底に沈んでいる。
そのご神体をお救いしない限りは、この社を動かすことはできない」とのお告げが得られました。
村人たちは、まずご神体発見に力を注ぎ、まもなく釜が淵に眠るご神体を見つけだすことに成功しました。
すると根が生えたように重かった社が、わずかの残留の村人の手で楽々と引き上げられ、この不思議さあらたかさを目のあたりにした大勢の人たちは、更に天神様崇敬の念を強くしたのでした。
このできごとが縁となって、天神様はやがて桐生新町の総鎮守として、赤城明神の森に祀られることになりました。
石鴨の地には新たに社が建てられ、末永く石鴨の鎮守様として村人たちに本家天満宮としての崇拝と誇りとに見守られています。
(サイト「桐生の民話」参照)
天満宮のようです。
結構古びていて、かなり昔からあるようですね。
地元の人が大切に守っているのが感じられます。
桐生川ダムから草木ダムに行くときに通りがかり参拝してきました。
ロケーションはなかなか良い所です。
おみくじと一緒に地元で伐採した木で作られた箸があります。
木の良い香りがしてもったいなくて使えません(笑)次に通る時も参拝しようと思います。
名前 |
石鴨天満宮 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
桐生市梅田町の山間部です。
夏でも涼しいです。