標高約139m、石川県指定史跡。
能登の加賀を結ぶ要所で前田利家・佐々成政が末森城を巡る攻防を繰り広げた場所です。
本丸跡からは眼下近くに海が見渡せ重要な城だと納得しました。
駐車場から20分の坂道でしたが、良い運動になりました。
前田利家と佐々成政の戦いで名高い城です。
『花の慶次』の奥村永福の見せ場ですね。
とはいえ縄張はあまり織豊系の改修を感じさせるものではなく、石垣も枡形虎口もありません。
逆にその点が興味深かったです。
藪が刈ってある範囲は夏でも見られますが、刈ってないところは冬でもきついでしょうね😅もっと広い範囲が刈られると良いですね。
グーグルマップに末森山古戦場碑と出てるところまで車で行けますよ。
この城の見所は若宮丸から主郭にかけての遺構群です。
建物は有りませんが、二の丸周辺の空堀やその他の従郭の堀切は特に見事でした。
能登の入口という立地から戦略上 重要な城と思いますし、普通に遊歩道を歩いているだけでは、この城の素顔は菜なかなか見えてこないと感じます。
越中 (富山県) から派生する宝達山系の山なみの西端に末森山が有り、細長い石川県の平地が狭く最もクビレている地域とゆう事になります。
戦国期 末森城は能登畠山氏の城郭でしたが、上杉謙信によって末森城は落とされています。
その後 前田利家領となり、本能寺の変を経て、越中を領する佐々成政と前田利家が対立。
末森城の戦い へと繋がっていく事になったと思われます。
「末森城合戦は前田利家が三国支配するきっかけに」【下駐車場わきの説明文より】押水の地は、能登の中でも最大の荘園でした。
この「大泉庄」は宝達山系と海岸線が最も狭まった地形に有り、古くから加賀・能登・越中へ通じる交通の要になっていました。
天正十二年(1584年)このころ富山城にいた佐々成政は加賀と能登を分断し、前田利家の戦力を弱めるのに最も適した末森城を手に入れようとしましたが利家に敗れる。
前田利家はこの戦い以降加賀・能登・越中の三国を支配する事が出来ました。
夢のあるこの地にはロマンを感じます、しかし入り口の看板等で期待は膨らむのですが本丸跡地には読めない説明文しかなく、せめて海岸線がきれいに見えるように伸びすぎた木の整備か石碑でも欲しいところです。
駐車場から山頂の本丸跡へは20分ほどで着きます。
道は途中からは舗装されていません。
夏の朝早くは藪蚊がいるので、日中に登られることをお勧めします。
ずっと木陰道がつづくので夏でも暑くないです。
標高約139m、石川県指定史跡。
駐車場が2ヵ所、縄張図付き無料パンフレットあり、案内板あり、本丸まで草刈り整備、などなどさっすが県の史跡。
本丸に登ると海まで見える眺めのイイトコがある♪(^o^ゞ遺構は曲輪がいっぱい♪切岸たっぷり♪堀切あるある♪..そして6月の草ボウボウの中に突撃すると、搦手門に出た。
堀切に堀底道がある♪これ以上はヤブ蚊の猛攻撃と蜘蛛の巣だらけでカンベン((((; ̄ー ̄Aマンガの「花慶」でこの城が出てきたので覚えていた。
あのシーンは泣けるんだよね~(’-’*)
能登に向かう幹線道路に程近く、交通アクセスは抜群です。
••• 15 〜20 分程を散策する様に歩けば、本丸に到着します。
日本海方向の眺望も開けていて、気軽なハイキングコースとして、お奨めします。
‼︎‼︎【Hakusyann's Bien 通信】
あまり手入れがされていないため、歩き辛かっかった‼️急斜面なところもあるので、小さな子や年寄りは無理なも⁉️日曜日でしたが3組の人に会いました。
有名な城だが、思ったより城域が小さい感じだった。
本丸までの道が険しいので、女性や年配の方には厳しいかも。
整備して保存されてれば良かったのですが…ただ、本丸からの眺望は見事でした。
地域の方々が草刈り等、手入れをしているらしい。
登城した時期が草刈り前だったらしく草が生い茂っており、遺構の確認が難しかった。
また、訪れたい。
散歩にちょうどいい。
城内の道に植物案内標識が並んでいて、楽しく歩ける。
夏は虫対策に長袖長ズボンでどうぞ。
嫌な虫ばかりではなく、蝶の乱舞などに遭遇出来ることも。
天気が良ければ三の丸から日本海が一望できます。
末森城(すえもりじょう)は現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野にあった日本の城である。
県指定史跡。
概要末森山(標高138.8m)に所在したため、この名で呼ばれたが、「末守」あるいは「末盛」と記した資料も残る(『信長公記』など)。
曲輪は山中に点在し合計面積は30,000m2におよぶ。
はじめ畠山氏の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされるが、詳しくは不明。
天正5年(1577年)に越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏、斎藤朝信らが末森に入ったとの記述がある。
その後、そのまま親真が城主として配された。
しかし、天正8年に加賀国の一向一揆を鎮圧した織田氏家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏。
土肥氏は同地に改めて配された前田利家の与力的な立場となったため、これ以後前田氏が支配することとなる。
(なお、この際に土肥親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶るが、末森城に在したため「末守殿」と呼ばれた)末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所であり、1584年(天正12年)徳川家康に同調した佐々成政が、この城を攻めたが城主奥村永福が死守(末森城の戦い)。
この勝利により前田利家の能登・加賀統治の基礎が築かれたともいえるが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となる。
本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として移築されていたが、宝暦9年(1759年)に火災によって焼失してしまっている。
本丸は、津幡町加賀爪へ移転され、加賀藩主代々の御旅屋として利用された。
明治10年8月28日に火災によって焼失。
昭和60年から押水町によって大規模な発掘調査が行われ、山中からは生活用具や鉄砲の弾など15世紀後半から16世紀後半の歴史的資料が多く出土した。
平成3年に石川県の史跡に指定されている。
【末森城-Wikipedia】
名前 |
末森城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0767-29-8320 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
古の戦国時代に思いを馳せるに適した場所です。
運動不足解消にもいいかも。