神主に頼むと歴史を学べる場所です。
以前行ったことありますが人形がちょっと怖い。
斉川の歴史を伝説知る。
民を救った英雄*坂上田村麻呂。
小児の妙薬*孫太郎虫。
史跡だからでしょうか?施設が古くて寒い。
4号線通ると気になっていた神社。
駐車場もあり、御朱印も拝受できます。
書き置きでしたが。
松尾芭蕉も訪れた由緒ある神社です❗
奥の細道 第15の段 「笠島」奥の細道の旅で芭蕉一行が訪れた「次信(継信)、忠信ガ妻ノ御影堂」である。
佐藤兄弟の妻が討死にした夫の鎧を付けて、兄弟の面影を姑に見せ、慰めた故事に基づく。
(興味のある方は過去の投稿「大鳥城跡」を参照されたい)曾良旅日記では、医王寺に甲冑堂の記載が無いが、江戸時代の解説書「奥細道管菰」には医王寺に甲冑を着た木像があることを記している。
考察するに、物語(奥の細道)の演出上、飯坂温泉を悪く書かねばならなかったため、あえて名前を「飯塚」と表記して、翌日訪れたここ甲冑堂のないようを盛り込み、本文にあるひどい宿の場所を限定させないための配慮と思われる。
すなわち、「奥細道管菰」が記載を間違えているか、どちらにも木像が存在したかのいずれかと思われる。
第15の段は鐙摺、白石の城を過ぎ笠嶋の郡に入れば…。
とありこの辺りの記載は淡泊だ。
鐙摺もこの物語を暗示しているようで面白い。
鐙(あぶみ)は馬の鞍に付ける足を置くところで、その鐙を摺(す)ってしまうほど、岩が迫った細い道が由来だそうで、まさに主題歌「田植ゑうた」が終わって「奥の細道」が始まるといったところだろうか。
白石城の城主は片倉小十郎、大坂夏の陣の後、大谷吉継の孫、真田信繁(幸村)の娘が嫁いだ場所である。
彼女は伊達家にとってどういう存在でであったろうか?家康の篤実な大谷吉継への敬意であったと信じたい。
過去の投稿、福島路ではずいぶん文学偏りの解説になってしまったので、本来の方針に戻して書きたいと思います。
もっとも、手前もこの由、はとの一門のように蜜の罠(addicted to honey)を受ければ、内容が大きく変わるかもしれませんが・・・そりゃないかwww。
桜も見事です。
神主に頼むと歴史を学べる場所です。
少し北に歩くと「鬼ずるし石」っていう史跡?あるみたいです。
歴史を感じます。
甲冑堂の由来を丁寧に説明して下さる。
元禄2年(1689)5月3日、芭蕉と曾良は、田村神社〔甲冑堂〕を訪れている。
ここには、佐藤継信・忠信(義経の家来)の妻たちの像がある。
〔奥の細道〕では〔医王寺〕(福島市飯坂)に妻たちの像があることになっているが、実際はこの田村神社にある。
甲冑堂のそばには、天野桃隣の句碑が建っている。
戦めく二人の嫁や花あやめ。
2013年7月27日(土)、福島県国見町より県境を越え、宮城県白石市斎川にある田村神社甲冑堂を訪れる。
中川宮司に社中をご案内していただく。
芭蕉の「奥の細道」の旅で訪れた可能性のある田村神社「甲冑堂」は、飯坂の大鳥城にあって義経の家来となって働いた佐藤継信、忠信兄弟のふたりの妻が夫が義経の身代わりとなって亡くなった後、兄弟の老母を慰めるために、夫の甲冑を身につけて、晴れ姿を見せたという気丈な逸話に沿って建てられたものとされる。
明治8年(1875)放火によって焼失したが、氏子連中の熱心な再建への思いが実現して、昭和14年(1939)再建されたもの。
奥州合戦で滅び去ったと思われる佐藤氏の妻の像が、佐藤氏の菩提寺である医王寺ではなく、少し離れた白石市の田村神社にあるのは謎だ。
中川宮司の話では、山形に落ち延びた佐藤一族が、後に建てたのではないかとのこと。
また二人の妻の面差しのモデルは芭蕉を敬愛する蕪村の「奥の細道図屏風」ではないかとも。
尚、再建に関わった建築家、芸術家は以下の通り。
甲冑堂の設計:小倉強(東北大教授)、妻の彫刻:小室達(日展無鑑査)、壁画:岡田華郷(日本画家)。
佐藤氏二人の妻の無念を偲びて一句。
”甲冑堂妻の祈りに梅雨明ける ひろや”
名前 |
甲冑堂(義経公家臣 佐藤継信・忠信妻女甲冑像) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
静かな佇まいです。
駐車場あります!