移築もされずに昔のまま鎮座する松山大手門。
山形県指定有形文化財「松山城大手門」 / / .
山形県で唯一現存する城郭建築だという。
ここに公共交通機関で来るのは中々大変でした。
時間を選ばなければ、酒田駅からバスでOKだが、休日の午前中は余目からバスに乗り、橋を越えてさらに徒歩25分程度という道のり。
夏は大変です。
一時期は高校の施設になったそうですが、移築もされずに昔のまま鎮座する松山大手門。
ドア(原文)門。
酒井忠休が築城した平城。
庄内藩の支藩である松山藩の藩庁が置かれた。
山形県唯一の現存するお城の建物。
松山城の大手門。
そもそもこちらにお城があったのは知らなかった💦💦初代藩主酒井忠恒に、庄内藩2代藩主酒井忠当より領内の飽海郡中山村が分与されて中山陣屋が構えら、後に中山を松山と改め、松山陣屋といった。
松山城は天明元年(1781年)に松山藩第3代藩主酒井忠休によって築城が始められ、それまでの中山館より移り、7年の歳月をかけて一応の完成をみた。
宝暦10年(1760年)忠休は西の丸若年寄となり、5千石加増され格式も城主になった。
戊辰戦争では、宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と戦うこととなった。
廃藩後大手門を除き、建物は取り壊された。
後付け増築だろうと思ってたら戊辰戦争の生き証人。
あ、生き証門の大手門。
そうか、この大門だけは官軍も許したのか。
殿様のようにずずずいーっと通り抜ける。
閉じてあって通用口から出入りできたら尚良し。
☆ よく見たら大手門の屋根に鯱がある。
おお!これはこれは凄い…、昭和に寄贈かー。
んまぁそれでも鯱掲げるの幕府の許しがないとできなかったはず。
やるな松山藩。
明治になつて、かつての武士階級は「士族」「卒族」に分けられました。
「出羽松山藩」では士族が「118戸」足軽階級だつた卒族が「336戸」あつたとの記録が残っています。
「1戸」あたりの構成人数が平均して7~8人と仮定すると武士階級の人口は家族や使用人等を含めて約3500人という事になります。
また武士階級本来の「戦闘員」と言った観点から考えると卒族の336戸=336人、士族の118戸×2人≒236人として出羽松山藩の「軍役」人数は約570人と推定することが出来ます。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は「軍役条文化」を発令して「一万石当たり200人」の軍役を割り当てました。
出羽松山藩は二万五千石ですから500人の軍役割り当てとなり、ほぼ先程の推定通りの人数となりました。
出羽松山城(明治以後は松嶺城)大手門は一度落雷で焼失し、現在の門は酒田の豪商本間重利が寛永4年(1792年)に寄進して再建された。
梁間3間、桁行5間平面の櫓門で、棟上には1.14メートルの鯱が上げられている。
松山城大手門は、山形県内で唯一現存する城郭建築とされ、山形県の指定有形文化財となっている。
春には桜が咲き、更に蓮の花、夏には大手門のライトアップ、秋には紅葉と楽しむ事ができます。
近くには庭園やキノコ杉が素敵な古刹総光寺、山寺宝蔵寺、夕陽が美しい眺海の森など一緒に回ってみて下さい‼︎
東北において、江戸時代の建築で原位置のままなのは、青森県の弘前城跡とここだけかと。
それぐらい良い城門です。
酒井市による庄内藩の支藩である松山藩の城郭大手門、藩政時代の名残を残す貴重な文化財。
希望者は申請すれば2階に上がることができるようだ、実際に廿年前に上がらせて頂いたことがある。
名前 |
山形県指定有形文化財「松山城大手門」 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0234-62-2632 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1183 |
評価 |
3.8 |
城跡があるのは知っていたが始めて敷地内を歩いた。
また木々が色づき始めたらまた来ます!