とてつもなく、でかい巨石に圧倒されます。
桜門を入ると枡形と呼ばれる四角い敷地があり、その目の前にそびえる大きな石で組まれた石垣。
かつては、石垣の上に多聞櫓と呼ばれる警備用の櫓が組まれ、門を守っていたそうです。
石垣の石の面積は約60平方メートル、重量約108トンの花崗岩。
蛸石と呼ばれ、大阪城内で一番の大きさとのこと。
左手にある石は、振袖石と呼ばれ、約54平方メートルの大きさで、大阪城内で3番目の大きさ。
岡山県で切り出され、はるばるここまで運んできたらしいけど、どんな仕掛けで何日かけて運んできたんだろう。
大阪城はアチキの憩いの場所・長居植物園に続いて(人*´∀`)。*゚+👍
重さ100トンにもなるという大阪城随一の巨石。
威圧?威厳?を見せつけるには十分過ぎます…
本丸正面入口を守るため「枡形」と呼ばれる区画が設さずけられ1624年大阪城再築工事の第2期工事で築かれた石材は岡山県産の花崗岩、表面積59.43M2重量は約108 t城内最大の巨石で蛸石と呼ばれている実際に見るととても感動した。
有名な大阪城で一番大きな岩。
厚みはなく、薄めの大きな岩らしい。
当時、どこで見つけ、どのように運んだのだろうか。
とにかくでかい。
昔の方々の偉大さを感じます。
また、それを大事に残すことをしっかり考えている地域の方々も偉大です。
門を潜って直ぐにテレビでお馴染みの巨大な一枚石が有るが、何処からどう運んだかよりも何故これが必要だったのかが知りたいと思う。
豊臣の財力と権力を世に知らしめる為か軍事防衛の為か何れにしろ不必要な物だと思うが、当時の秀吉の力を伺い知るものです‼️船では運べないだろうし人力で運んだのか?思うに始めからこの位置に在ったと考えると疑問点は簡単に解決するが石は備前(岡山県)産で130tだそうで簡単な事ではないので考えるのは止める🎵
日本一デカイ石垣の石です。
石好きにはたまりません。
きっちり組まれた石に感動します。
花崗岩凄い。
大阪城の枡形には、巨石が並んでおり、驚きます。
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓(たもんやぐら)が建てられました。
この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩が用いられています。
正面の石は蛸石(たこいし)とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)重量は約108トンと推定されます。
向かって左手の巨石は振袖石、袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。
なお、上部の多聞櫓は慶応4年(明治元年、1868)、明治維新の大阪城大火で焼失しました。
ここまでの巨大な岩石はなかなか見れない。
桜門内側に置かれた巨石。
大阪城内で最も巨大な石である蛸石は36畳(59.43平方メートル)の表面積、約108トンの重量があると言われており、城の玄関口でひときわ異彩を放っている。
寛永元年(1624年)の徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事の際に本丸入口の防衛のために作られた枡形(ますがた)という石垣で囲われた区画を整備した際にこの石がここへ置かれることとなったそうです。
備前(岡山県)の花崗岩が用いられているそうだが、このような巨大を前にすると、どのようにして、どれだけの人員を使ってここまで運んできたのかというのを考えるだけでも壮大で非常に興味深い。
また、かつては囲われた巨石の上部に多門櫓が建てられていたそうですが慶応4年(明治元年)に起きた明治維新の大火に際に焼失してしまったそうです。
大阪城を散策する際にはぜひともこちらの巨石に注目していただきたい。
岡山市犬島産花崗岩は、大阪城の「蛸石」で有名ですが遠く鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居や東京の上野東照宮の鳥居にも使用されているそうです。
本当にデカイ。
力を見せつけてます。
大阪城内一の大きさを誇る巨石です。
日本最大の鏡石とも言われています。
岡山にある犬島が産地であり、表面積は36畳もあり、重さは約108トン。
これほどまでの大きさの石をどうやってここまで運んだか、想像もつきません。
車も重機もない時代に何百何千という人力で運ばれていたのでしょう。
壮大な歴史の一端に触れることができ、とても素晴らしい体験が出来ました。
場所は桜門を入ってすぐのところにあります。
大阪城に訪れた際にはぜひ見てみてください。
でかいでかすぎる!こんな大きな石をどのように運んだのか大勢の人が携わったのでしょう綺麗にカットされていてパワーを感じます。
日本の石垣に使われている石の中で最大級なだけあって大迫力。
どうやって運んだのか不思議になるほど。
とてつもなく、でかい巨石に圧倒されます。
重量は約108トン。
いったいどうやってこんな巨石を運んだんだろう。
以下、解説板より。
「桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。
この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。
正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。
向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。
なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
」
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた【枡形】とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。
この枡形は、徳川幕府による大阪城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624年)、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前(現在の岡山県)犬島産の花崗岩が用いられている。
正面の石は、蛸石とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。
蛸石の名前の由来は、石の表面左端にある酸化第二鉄による茶色い模様が、蛸の頭の形に見えることから、そのような名前が付いたと言われています。
向かって左手の巨石は、振袖石(袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。
なお、上部の多聞櫓は慶応4年(明治元年、1868年)、明治維新の大火で焼失した。
表面積は畳36枚分、推定重量は108トン、大阪城内で最大の巨石、蛸石(たこいし)。
なぜタコなのか?名前の由来が知りたいです。
でかい。
けど、厚さは九十センチほどらしいです。
とにかくデカイ、この石をどうやったら運べるのか?江戸時代になぜそんなことができたのか?説明を聞いてもわからない😱こんなデカイ石、ビクッとも動かないでしょう(笑)それをどうやって舟に乗せるの?ミステリー😱わからないから素晴らしい👍
でかいです。
俺ってビッグだろ?っていうアピールのツールやったんでしょうね。
古代から続く巨石信仰みたいなもの、霊力で守護する要石。わざわざ遠方より運ぶ事により、天下普請を道中に猛アピ!する手法だな。兎に角デカイ! 36畳のサイズらしい。
大阪城内堀、桜門を入ってすぐ真正面に見えるのが蛸石だ。
備前、犬島から切り出されたこの巨石は108屯もあり、大阪城内最大の巨石だ。
意外に思うのは、蛸石前の広場が殺風景なことだ。
大阪城の印象が決まる一番大事な場面で、何かが欠けている。
やはり、戊辰戦争時の大火で、蛸石ら、巨石群上にあった白く輝く多聞櫓が焼失したことによるのだろうか?また大阪城内にあった本丸御殿の建物群も今は全くない。
あるのは観光客の喧騒と歓声だけだ。
名前 |
蛸石 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
桜門を入った正面に有る巨石。
圧倒的な存在感、切り出しや設置もさぞ大変な作業だった事だろう。