明治の廃仏毀釈で、廃寺になりました。
石上神宮の神宮寺だった内山永久寺は、法隆寺に次ぐ寺領の古刹だったといいます。
しかし、今はもう池と松尾芭蕉の俳句と石碑や看板しか残っていません。
本堂があった場所に見晴台があるくらいです。
そこから眺める景色は、100年前とは全く違うものなのだと思うと寂しい気持ちとなります。
廃仏毀釈の本によると、内山永久寺の僧侶たちは早々に寺を見限って石上神宮の神官となったと書かれています。
役人が来た際には、仏門を去って神道に入った証拠に薪割りで仏像を頭から叩き割って役人を引かせたというエピソードも‥。
廃仏毀釈により、国宝級の至宝が多数破壊されあるいは散逸したという。
以後「神」に仕えるその証しとして、本尊の文珠菩薩を薪割りで「一撃を喰はした」僧までいたらしい。
彼には還俗後の自らの保身しかなかった😩😡当時の住持がそれらを守る気概と厚い信心があれば、大御輪寺の十一面観音や地蔵菩薩の如く他寺に移されながらも、ここの仏たちは生き残ることが出来たかもしれない。
少し奥にある高台から大伽藍があった場所を望み、ちと感傷に浸る。
明治時代の廃仏毀釈で消滅した大寺院痕跡は池以外ほぼ無く、柿の木畑になっています。
寺院の中を山辺の道が通っています。
かつて「西の日光」とも言われたそうですが、今は文字通り「永久」に消滅した大寺院の跡です。
寺の跡らしきものは、池ぐらいでしょうか。
その他は私有地なのでよくわりません。
車で行けますが、結構道は細いです。
ポケットパークの前の路肩に車1台ぐらいは駐車できるスペースはあります。
但し。
引き返す場合は何回か切り返しを行う必要があります(運転が不安な方は徒歩で行くのが無難です)。
松尾芭蕉が若かりし頃、一時身を寄せた寺です。
今では池のほとりに石碑と説明版があるだけですが、かなり大きな伽藍をもっていたようです。
適度に小高い場所にあり二上山に沈む夕日がきれいに見えます。
昔の繁栄した跡方も池しか感じられず複雑な気持ちになりました。
芭蕉の句があるだけです。
江戸期までは,西の日光といわれる暗い栄えた大伽藍寺院でした。
しかし,明治維新後の廃仏毀釈で,全てなくなりました。
伽藍の基礎まで持ち去られました。
ポケットパークがあるので,山辺の道の休憩場所になります。
北へ行くと石上神宮南へ行くと山越えをして,天理観光農園です。
明治初期に廃仏毀釈により廃寺となった大寺院跡です。
往時をしのぶ遺構は池と供養塔のみだそうです。
寺領であった場所のほとんどが畑となっているようで、訪問時にあまり探さなかったこともあり、供養塔がどこにあるかわかりませんでした。
池の入口には比較的最近建立されたとおぼしき立派な芭蕉碑があります。
芭蕉が永久寺を訪れた際は、桜が満開だったようです。
夕方訪問したせいもあってか、人もおらず、ものすごく寂しい気分になりましたが、諸行無常を感じるに足る場所に赴くのもたまにはよいかもしれません。
仏像の写真は現在東京国立博物館所蔵で、元々は永久寺に安置されていた愛染明王坐像です。
こちらの仏様は博物館での出陳時に写真撮影可能でしたので、撮影・掲載をさせていただいている次第です。
内山永久寺『馬魚伝説』・・南北朝時代、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が吉野に御潜幸になる途中、内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の萱御所(かやのごしょ)に入御しました。
その時、天皇のあとを追って赤松円心(あかまつえんしん)等の軍勢も神宮近くに到着し、軍馬がしきりに嘶(いなな)きました。
天皇の御乗馬がこれに応じて嘶こうとしたため、天皇の従者は円心等にさとられるのを憂い、御乗馬の首を斬って本堂前の池に投じました。
その後、本堂池に草を食べる魚が住みつくようになり、人々はこれは御乗馬の首が魚になったのだと考え「馬魚」とよぶようになったと伝えられています。
石上神宮から、山辺の道を10分程度歩いたところの高台に跡地があります。
明治の廃仏毀釈で廃寺となったそうです。
跡地には、ありし日の境内を描いた看板や、由緒書があるのみで、なにも残っていません。
ただ石上神宮には、内山永久寺の山内にあった、住吉社の拝殿が移築されていて、現在は国宝となっているので、お見逃しなく❗
すぐ目の前の池のほとりの桜が満開でした。
何もない場所でのんびりと過ごすのもいいと思えるこの場所。
昔は大寺だったが、明治の廃仏毀釈により廃寺となった。
明治の廃仏毀釈で、廃寺になりました。
今は、池が残っています。
鎮守社の住吉社の拝殿が石上神宮に移築されて摂社の出雲建雄神社拝殿として国宝となっている。
他の堂塔、仏像など、残っていれば相当なものだったと思われます。
釣り人が邪魔。
のんびりした場所で癒されます昔は大きな寺だったそうで以前の栄華に想いを馳せることも出来ます。
桜が湖面に映りとても美しい。
かつては大伽藍を誇ったといわれる。
明治初期の廃仏毀釈で、徹底的な破壊と略奪がなされ、往時を偲ぶよすがは何もない。
当時、仏像を鉈で叩き割る僧までいたらしい。
興福寺の僧が、春日大社の神職になったのと同じように、永久寺の僧も、石上神宮の神職となったらしい。
ここだけでなく、中世から大寺は、俗世以上に栄達の場であった。
廃仏毀釈は、「禄を失う恐怖」であったのか…。
天理市〔内山永久寺跡〕に芭蕉句碑が建っている。
うち山や外様知らすの花盛り 宗房 平成2年(1990)天理のライオンズクラブが建立した碑で、宗房というのは芭蕉のこと。
碑の文字は芭蕉の真蹟。
名前 |
内山永久寺跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0743-65-5720 |
住所 |
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評価 |
3.6 |
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平安時代末期の永久2年(1114年)に鳥羽天皇の勅願により創建された寺ですが、現在は、本堂池だけが残っている状態です。
場所は、石上神宮から桜井、柳本方面に約15分(約800m)歩いた所です。
休憩できる小さな場所があります。