村上通康・平岡房実を派遣し内子・五十崎方面を攻略。
1566年8月9日、大洲宇都宮氏が河野氏に敵対する動きを見せたので、村上通康・平岡房実を派遣し内子・五十崎方面を攻略。
1567年、宇都宮氏の援軍として一条氏が北上開始。
河野軍は宇都宮氏を大洲城に封じ込め三間に布陣し一条氏に挑むも敗退。
これにより村上通康は、下島次郎左衛門を安芸吉田に派遣し小早川隆景の援軍を依頼したが、伊予国に精通した小早川隆景・乃美宗勝は北九州攻略の途にあったため援軍の派遣が遅れた。
ちょうど前後して、河野軍の村上通康がこの世を去り、村上吉継が跡を継ぎ前線へ。
一条軍が宇和盆地を北上する際、宇和郡内諸侯が応戦したがことごとく打破られ降伏するも、元城(現八幡浜五反田)の摂津氏が河野氏の援軍として出陣し、国木に陣を置く。
1567年11月、一条軍は高島(現鳥坂トンネル東方)に砦を築き布陣する。
1568年正月、伊予河野軍と土佐一条軍との激しい戦いが行われたが一条軍が勝利した。
『高島の戦い』この時、高島の陣を落とせなかった河野軍は一条軍の退路にあたるこの地(現鳥坂トンネル西方)に砦を築きその周辺も固めた。
その頃、小早川軍が肱川を遡上し宇都宮氏の各城を落とし河野軍と合流した。
1568年2月『鳥坂峠の戦い』戦国期の南予における最大の合戦が、喜多郡と宇和郡の境界付近の多田・鳥坂峰で行われた。
一条軍は退路を絶たれると補給・その他甚大な被害が出る為、河野軍の鳥坂城決戦に乗り出すも、村上吉継の働きにより死守。
村上吉継は乃美宗勝らと話合い最終決戦場を正月森に決めて一条軍と対陣すし、一条軍の正月森襲撃にも村上吉継ら来島衆が活躍し・勝利し名声を上げたが、土佐一条氏・大洲宇都宮氏は健在で尚も当地で抵抗を続ける。
1568年7月、河野氏の働きかけで幕府を動かし宇都宮氏を敵と認定させた。
その後さらなる援軍の毛利勢に捕らえられる。
その後、小早川隆景・乃美宗勝は北九州に向かっている。
この戦いで一条氏は敗戦帰国し、奪い取った西園寺領も放棄される。
遍路道は水害の影響はあまり無かったようです。
道中、もう少し見晴らしが良いといいのですか。
1568年に毛利・河野と一条・宇都宮・西園寺・三間衆・両山衆連合軍が戦った戦場。
鳥坂城探索に行きました。
名前 |
伊予鳥坂峠 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
大半が林業用の作業道(舗装・未舗装両方)でした。
手入れの行き届いた杉・檜林を不安なく快適に歩くことができます。
迷うような分岐も特にありません。
交通量が多く相当危険なトンネルを避けて正解でした。
但し、冬場は歩行者は皆無に等しく、山行の心構えで事前のルート確認、装備、飲料水・非常食携行、バッテリー充電等はしっかりとして入山することをお勧めします。