閑静な住宅街の中にポツンとある史跡静かに眠る頼朝の...
北条泰時が開基とされる常楽寺の裏山にある北条泰時の娘と伝えられる姫宮塚とその奥には粟船稲荷の祠があります。
この上には、木曽義仲の子、義高の墓とされる木曽塚があり、姫宮塚には、許嫁の大姫が祀られているというお話しもあります。
木曽塚自体が、江戸の頃に「木曽免」と呼ばれていた田圃にあった塚が常楽寺の裏山に移されたと云われており平仄があわないのは分かっていますが、木曽塚に寄り添うような佇む様を見てしまうと、様姫宮塚が大姫のお墓だと思いたくなってしまいます。
7歳の初恋を20歳で亡くなるまで貫いた大姫を想うと。。。
源頼朝、北条政子の長女。
木曽義仲の嫡男、源義高を婿として迎えられたが、結ばれることはなく、若くして亡くなる。
そんな悲恋のエピソードがある姫。
義高を祀る木曽塚はその雑木林の階段を上ったすぐのところにある。
▼大船駅に近い閑静な住宅街の階段を上っていくと小さな公園があり、その先に木曽(清水)義高のお墓があります。
そこから20m程度下ったところにあるこの姫宮は頼朝の長女・大姫の墓と言われています。
▼ご存知のように木曽義高は、木曽義仲の嫡男です。
▼同じ源氏同士でありながら、対立していた関係の解消のため、鎌倉へ送られてきた11才の義高と頼朝の長女・6才の大姫との婚約が成立しました。
▼これにより、義高は鎌倉へやってくるのですが、婚約とは表向きの話、実質義高は人質なのです。
▼11才とは思えない、大人の義高は、自分が人質として鎌倉に来たことを自覚し、その憂いを含んだ立ち居振る舞いは、周囲の大人からも「いじらしい」と感じられただけでなく、6才の大姫をも大人顔負けの大恋愛に引き込んでしまうのです。
▼しかし、二人の父親・頼朝と義仲の仲は、急速に悪化してしまいます。
▼義仲は怒涛の如く都に向い進撃を開始し、平家を都から撃退させるまでは良かったのですが「木曽の山猿たちが都の食糧を漁りに来た」と悪口を叩かれるくらい、京における義仲の軍律は乱れに乱れ、後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じます。
▼頼朝は早速、弟の範頼・義経を大将に軍勢を出し、義仲を敗死させます。
▼父・義仲の死によって、鎌倉にいる義高の立場は急速に危うくなります。
▼頼朝は自分が命を助けられたことが、平家の甘いところだと認識し、義高を生かせば、同じように父・義仲の仇である自分を討ちに来ると確信しているのです。
▼これを察知した政子は、義高を密かに屋敷を脱出させます。
▼しかし、頼朝はこれに気が付き、追っ手を差し向け、埼玉の西、入間川のほとりで義高に追いつき、斬ってしまうのです。
▼大姫はこの事実を後から知ってしまうのですが一切食事を取らなくなり、大熱を発しました。
▼子供のこと、そのうち忘れてしまうだろうと思った頼朝・政子両親は後々後悔することとなります。
彼女は20歳で死ぬまで義高を想い続けるのです。
▼そのような大恋愛の対象・かつ悲運の義高のお墓が、鎌倉から離れたここにあります。
まだ子供とはいえ、入間川の畔で斬首した首は鎌倉で首実検したからなのでしょうか?また人質だったからこそ、鎌倉郊外のこの場所に埋められたのでしょうか?▼この義高の墓のある丘を南側へ少し下ったところに、大姫の墓との言い伝えがある祠があります。
(写真を参照してください)▼真実かどうかは良く分かりませんが、義高も大姫も正直、鎌倉はゴリゴリなのでしょう。
なので大船という少し距離を取った場所にお墓があるのかもしれません。
▼1つだけ救いがあるとすれば、義高のお墓も大姫の祠も鎌倉方面を向いて建っているということです。
仲良く二人で「鎌倉はコリゴリだね~」と言っても鎌倉と深い関係にある彼らは、これからの鎌倉も見守り続けていくのでしょう。
#japanlocalguides #マイナー史跡。
常楽寺からの険しい山道の中腹ぐらいにある源頼朝の娘・大姫様のお墓🙏源頼朝の娘なのにお墓がかなり小さいのが不思議🤔そして彼女の儚さと悲運を感じる程場所がそれを訴えて来ているような不可思議な感じがする所だった🌿🌿🌿
閑静な住宅街の中にポツンとある史跡静かに眠る頼朝の娘はこの街を見守っていてくれているのでしょうか。
名前 |
粟船稲荷姫宮の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
常楽寺から木曽義高の墓へ向かう途中にありました。
看板には、「手前、姫宮塚(泰時公の娘)、大姫の説有り」と記されていて、登った先にある義高との悲話なのか、すぐ下で眠る父泰時のそばに葬られた娘なのか、諸説あるようですね。
とても寂しい場所なので、どちらでも構わないですが、もう少し近くに葬ってあげれば良かったのにと思いました。