土塁などは中世遺構と考えられています。
2021年5月5日に訪れました。
後三年の役で応徳3年(1086年)清原家衡が、清原清衡と源義家の連合軍を撃退した居城です。
蔵光院というお寺が、城跡に建っています。
雄物川町の中心部は、ほぼ、この城郭内にあたるようです。
元々は、雄物川の自然堤を活用した沼地と低湿地帯に囲まれた城でした。
長期戦になって、冬を迎えたため、連合軍は、餓死者や凍死者を多数出し、撤退を余儀なくされました。
この戦勝を聞き付けた清原武衡が、家衡に金沢柵へ居城を移すことを進言し、この城から去りました。
沼の柵本城跡 現在は蔵光院の山門か。
後三年の役の際、清原家衡がこの柵に立て籠もって源義家軍を迎え撃ちま した。
四方を水で囲まれたこの柵は難攻不落で、義家軍は苦戦しついに撤 退。
このあと、清原家衡はより強固な金沢の柵へと拠点を移していきました。
八幡太郎が負けた場所。
歴史の深さが感じられる。
地元の方々が寄贈された石仏が多く点在して、その想いが伝わってくる。
蔵光院~小学校跡を土塁が囲む。
後三年の役で清原家衡が篭った。
名前 |
沼の柵本城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
ここは沼柵伝承地だけで、土塁などは中世遺構と考えられています。
八幡太郎義家、清衡軍がこんな平地で負ける可能性もこの柵から脱出して金沢柵まで逃亡出来る可能性もかなり低いと思う。