名前 |
台湾少年工顕彰碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
台湾少年工顕彰碑の由来先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向上心に燃えていた台湾の若者に求めました。
新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く、その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場へ派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。
しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
一九四五年八月十五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土へ上陸した日から数えて七五年になります。
私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。
この顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
二〇一八年一〇月二〇日(平成三〇年十月二十日)台湾高座会留日七五周年歓迎大会 会長 衆議院議員 甘利明。