名前 |
二十五坊旧蹟碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
90.二十五坊旧蹟アクセス:鶴岡八幡宮の西側の道を巨福呂坂へ向かう途中、、右側にある鶴岡八幡宮の駐車場入口をすぎると石碑があります。
西北の地域一帯を御谷(おやつ)といい、石碑左側の住宅地への小道を進むと、二十五坊の跡がのこされています。
また、この小道の東側に発掘調査をした解説パネルなどがあります。
・源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮は、正しくは「鶴岡八幡宮寺」という神仏混淆の宗教施設であった。
その社役を務める僧侶である供僧が、八幡宮の北西に設けた二十五の住坊およびその住持職(しき)の総称を鶴岡二十五坊という。
・鎌倉幕府の滅亡した後、衰退著しく、維新後の1868年(明治元年)神仏分離令(廃仏毀釈)によって八幡宮寺は、不浄とされた寺院を廃止して神道のみの八幡宮になった。
そのため供僧は還俗し、坊はすべて廃絶した。
供僧の葬儀は、境内で葬儀・荼毘・埋葬できなかった。
浄光明寺に墓地があります(墓石には、鳥居の彫込みがあります)。
「二十五坊旧蹟」碑には、下記のような意味の言葉が刻まれています。
「この地は頼朝の時代以来、八幡宮の供僧の僧舎である二十五坊と別当坊が置かれた所である。
かの別当公暁が、実朝の首を手に潜んだ(公暁の)後見人の備中阿闍利の邸宅もまたこの地にあった。
応永年間(1394~1427)に院宣によって坊の称は、院と改められた。
戦国の世に至って鎌倉管領が衰微するとともに各院も次第に廃絶し、天正(1573~1592)の末には僅か七院を残すのみとなった。
文禄年間(1592~1596)に徳川家康が五院を再興して十二院となったが、明治維新後には、ついにまったく廃墟となってしまった」