海防艦隊第三十号の物語。
海防艦30号慰霊碑の特徴
海防艦隊第三十号慰霊碑の由来には、戦争の悲劇を伝える重みがあります。
昭和20年の厳しい戦況を物語る貴重な史跡です。
ここでは先人たちの勇気と歴史を感じることができます。
海防艦隊第三十号慰霊碑の由来昭和二十年の夏、第二次世界大戦もいよいよ末期となり、本土主要都市は敵機の空襲により焦土と化しつつあった。
海防艦第三十号(艦長楠美中佐以下一八五名乗組)はこの←約百メートル宮の鼻海岸沖合約二十メートルの海面に係留し、決死の覚悟で敵機の来襲に備えていた。
折しも七月二十八日午前九時敵グラマン艦上機が来襲、同艦は由良海岸基地および由良町の被害を食いとめんと孤軍奮戦し、みずからは敵機の攻撃目標となって終日数回にわたり、延べ実に八十数機の集中攻撃をうけ、全艦火の玉となって力闘したるも執ような敵の波状攻撃に抗し切れずマスト折れ、艦橋飛び、弾つきてついに大火災を起こし沈没した。
この戦闘において艦長以下六十六名は壮烈なる戦死をとげその他の將兵もことごとく重軽傷を負った。
また海岸一帯および付近民家十数戸も破壊されまさに筆舌に尽くしがたい惨状であった。
護国の神と散った戦死者の遺体は戦友達の哀惜の涙のうちに開山興国寺において手厚く仮埋葬された。
ここに祖国の平和と繁栄を信じ勇戦奮闘、鬼神も泣く壮烈なる最後を遂げた六十六勇士の殉国の精神をたたえて波静かなるこのゆかりの地に碑を建て御靈魂永遠に安かれとその冥福を祈るものである昭和三十二年七月二十八日発起人 由良町糸谷区有志海上自衛隊横須賀工作所謹製慰霊碑の碑文について、文字起こししてみましたが、もし間違いがありましたら申し訳ありません。
また出来るだけ碑文の漢字を使用しています。
碑文を読みながら、当時の想像を絶する状況について、つい最近まで知りませんでしたが、この歴史を忘れてはいけないと思いました。
米軍の圧倒的な火力が由良の町を襲ってきたのを全滅を覚悟で立ち向かった海防艦艦長以下の軍人たち…小職の祖父あるいは曾祖父の世代の話です語り継いでいかんとな。
今から74年前の昭和20年7月28日朝、海防艦第30号は運命のときを迎えた。
軍艦旗掲揚が終わってほどなく米軍艦載機による銃爆撃を受け艦は大火災、艦橋にも3発の直撃弾を受けた。
浸水激しくなり深夜になって本慰霊碑の沖に沈没。
和歌山県日高郡における日米最大規模の戦闘となった。
楠見直俊艦長以下のべ戦没将士99名。
一身に敵攻撃を引き受け護国の鬼となり敢闘しその武運が尽きるまで由良の町を守った。
この当時の様子を目の当たりにした少年が私の中学時代の校長先生でした。
紅蓮の炎が空を染めた話を、32年前の登校日に聞いたたのを今も覚えている。
名前 |
海防艦30号慰霊碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
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